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暁の彼方〜第十章 深い森〜




「――ちょっと待ってよ!」
 我に帰ったのは、テラの方が先だった。
 滑り込むようにして男の前方に立ちはだかり、その双眸を真正面から見つめ上げる。
 無言のまま、片方の肩をわしづかみにつかまれた。加減も容赦もない、純然たる男の力だ。痛みに顔をゆがめたテラを気遣うでもなく、ルーカスはまるで荷でもどかすかのような要領で、彼女の身体を押しのけようとする。
「あたしを疑うんだったら、それでも構わないわ。だけど、今、ここを通すわけにはいかない」
 もみ合えば、力では比べるまでもないはずなのに、さすがに本調子ではないのだろう。腕と腕が絡み合い、もつれるようにして倒れこんだ。粗末な壁に背中を押し当てられた状態で、テラはきっと、ルーカスを睨み上げる。
「そこまであたしが信用ならない?!今ここであなたに何かするくらいなら、最初からやってたわよ!」
「……そういう意味で、言っている訳じゃない」
「ルーカス、ならどうして」
「どいてくれ。俺は今、お前と同じところにいたくないんだ」
 ――お前と同じところに、いたくない。
 予想もしていなかった台詞に、すうっと心が冷える。罪悪感から優しくされて、思い上がった娘の善意など、迷惑でしかないということか。死を与えてやれない相手など、彼にとっては何の意味ももたないということなのか。
「そういうこと……、だったら、あたしが出ていく!」
「なっ」
「ここで1人でグレイを待つのならいいのでしょう。だったら、あたしが出ていくわ」
「馬鹿を言うな、お前だって怪我人だろうが?!それもお前のような若い娘が、こんな天気の日に――」
「怪我人っていうなら、自分の方がよほど重症なのがわかってないの?!お願いだから炎の傍に戻って。これ以上熱が上がったら、本当にただじゃすまなくなる」
「……」
「そんなにあたしが嫌いなら、迎えが来たらもう2度と、そばに近づかないから!もう絶対、顔を見せたりもしない。お願い、今ここで、あなたを失うわけにはいかないのよ!!」
 身体の中にあるものをすべて絞り出す訴えに、さすがに、ルーカスの顔色がかわった。テラの身体を懐に抱いたままずるずるとその場に座り込み、何かに憑かれたような瞳で呟く。
「俺を失うわけにはいかない?……どういう意味だ、それは?」
「え、どういうって――」
「手を組むかわりに仲間の安全を約束する、王宮側の人間が必要か」
「ルーカス?」
「西と交渉する人間が必要だよな。サイファ王の野心を諦めさせて、同等に渡り合うだけの弁の立つ輩も」
 そうだ。その通りだ。だからこんなところで彼を死なせるわけにはいかない。だが今、そう口にすることが恐ろしいと感じるほど、若者の表情は常軌を逸して見えた。
「――知っていたか?そんなもの、本当は俺でなくとも構わないんだぞ」
 言い切ったその瞳に映る虚ろに、不覚にもテラはぞっとした。
「俺の存在など、かけかえのきく部品のようなものだろうが。たまたま目の前に都合のよい歯車が転がっていたから使ってみた。使ってみたらうまく機械がまわったから使い続けてきた。……ただ、それだけの」
 投げ出すようにそう言って、笑って見せたつもりらしい。視線の先で、男の喉仏がこくり、と揺れる。
 笑い声になど聞こえなかった。晩秋の森にわずかに残った草や葉のこすれる音に混ざって、消えていっただけだ。
「そんなこと……」
 彼の言うことは間違ってはいないし、そういった側面があることは否めないのだろう。テラだってそうだ。ギルドを助けたい。争いのない国が欲しい。その為には今目の前の男の力が欲しい。
 剣を持たずに生きられる国が欲しい。もう、自分の大切な誰かが血を流して死ぬのをみたくない。誰も彼も、<黒宰相>には期待ばかりをかけてきた。期待される側の痛みや苦しみなど、これっぽっちも考えもせず。――ただただ、自分の望みだけを。
 もっともそのこと自体は、決して悪辣だと責められるものではない。誰も皆、自分の生きやすい場所が欲しいのだ。自分と自分の大切な人が笑い合っていられる、ささやかな空間が欲しい。そして万人の望みが並び立つことが難しい以上、上に立って人々の望みを調節する人間は絶対に必要だ。
 ――それを歯車だと、この男は笑うか。
 期待することは罪ではない。それは夢だ。希望だ。誰だって、目の前に輝くものを見ていなければ歩けない。灯明を失くした道は続かない。ただ延々(えんえん)とさ迷うだけ。
「……ルーカスには、ないの?」
 自分にしがみつく娘を押しのけることも、さりとて抱きとめることもできなかったのか、若者は黙って身を引いた。体の位置が入れ替わり、今度はルーカスの方が壁におしつけられた状態になる。
 もうどうにも言葉が見つからず、テラは目の前の布地を握り締める。固さを感じる胸に額を押し当て、震える声で呟く。
「あたしなんかじゃ、力になれないことはわかってる。だけど、できることがあったら何でもするから、言ってよ。国じゃなくて、民でも……たくさんの誰かが望むことじゃなくて。あなただけの欲しいものは、ううん、場所でも人でも何でもいい。ルーカスが欲しいものは、もう、ここには何もないの……?」



 荒れ狂う風音に小屋は揺れ、雷鳴がとどろくたび、ひしゃげたように影が舞った。
 途切れ途切れに拙く、だがありったけの思いをぶつけた言の葉に、ルーカスは目を見張り、顎の下で揺れる艶やかな髪を見た。
 かつてまだこの小屋で暮らしていた頃、嵐の声が怖かった。夜の闇が恐ろしかった。望まずして森で過ごす夜などは、できるだけ大きな木の影で、小さくなって震えていたものだった。
 今思うなら、昼だって暗闇だらけの森で育って、どうしてあれほどまでに夜の闇が怖かったのだろうと思う。それとも、あれは本能なのか。夜の中には怖いものが潜んでいると告げる、人間に特有の本能。
「手を、放せ」
 そっと掴んで離そうとした、華奢な肩の思いがけない細さに息を呑む。同時、同じ掌が伝えてきた柔らかさとまろやかさの感触に、自分でも思ってもみなかった感覚を呼び起こされ――ルーカスは思わず、伸ばしかけた手を引いた。
 肌を滑る吐息は熱を帯び、押し当てられた身体はしなやかに甘い。
 傷の痛みと疲労と熱っぽさがあいまって、多少自制がききにくくなっているのかもしれない。鼻腔をくすぐる甘い香に、眩暈がしてきそうだった。
 ルーカスも男だ。人並みに欲もある。いつかの夜もそうだった。この娘に対していると時折、普段は苦もなく押さえ込まれている<生身の男>が、意味もなく首をもたげてくることがある。
 だが今は、そんなことを考えている場合か。
「……聞き分けてくれ」
「……」
「あの刺客は、明らかに俺を狙っていた。このまま2人でここにいては、何かあった時、お前まで危ない。俺は雨風をしのぐ場所くらい心得ている。だから――」
「そのあたりの女と一緒にしないでよ。あたしは戦闘者のギルドの女よ。あんな連中くらい、蹴散らしてみせるわよ」
 ……失敗した。安易な方法を選んだ己の愚かさ呪いたくなる。何しろ、戦闘者のギルドの頭領と、まともに打ち合うほどの女だ。理由を知れば戦うことを選ぶだろう。だから、彼女には訳を明かさず、ここに残して行こうと思ったのに。
 天を仰いだルーカスの目の前で、ぱち……と、音をたてて炎が爆ぜた。いつか見た血色の蝶の残像が、瞼の裏に蘇ってくる。声が聞こえるのだ。あんなものの中に飲まれるのは、あんなものを負って生きるのは、この身ひとつで十分だ。早く遠ざけろ、お前はこの娘まで巻き込む気か。
 そんなものは幻だ、炎と風が描き出す幻影なのだとわかっていても、思いは、感情は強烈だった。衝動に任せて、ルーカスは細い肩を掴んで押し放そうとした、が。
 その瞬間、奇怪なことがおこった。ごう、と音をたてて影が揺れ、幾重にも折れ重なった残像が引いたのだ。――この娘にだけは触れられない、この娘の存在こそが光なのだと、そう言わんばかりに。
 気づいた時には、遠ざけるはずのその体を、逆に掴んで引き寄せていた。
「――え、ル、ルーカス?!」
 どうしてこれほど強くいられるのだろう。彼女の大切なものを根こそぎ奪い取り、自分の大切なものは何一つ守れない、そんな男のことなど捨て置いてしまえばいいのに。
 敵(かなわ)わない。心の底からそう思った。どうあっても、この相手にだけは敵わない。そう思わせる人間に、出会ってしまった。
「テラ、お前――」
「ルーカス?」
「俺と、逃げるか……?」



 ――俺と、逃げるか……?
 問いかけの意味が咄嗟にはつかめずに、テラは思わずまじまじと目の前の男を見た。この人と逃げる?この国を、仲間を捨てて?そんなことができるのか。自分が、ではない。他でもない――この男に。
「今ならまだ、<黒宰相>なんて奴は死んだことにできる。このまま森をぬけて、2人でどこか遠くにでも行くか」
 問いかける瞳の、あまりの真摯さに息を呑む。その眼差しの内側に揺らめきを――それは熱とも、欲とも取れた――見て、テラは文字通り絶句した。
「……冗談だ」
 言葉を失ってテラを見て、ルーカスの口許がふ、と緩む。
「性質(たち)の悪すぎる冗談だったな。すまない。忘れてくれ」
「――いいわよ」
「テラ?」
「逃げてもいい。あなたが本当にそう望んでいるのなら」
 テラにとっても乾坤一擲(けんこんいってき)の賭けだったが、気を詰めていたのはルーカスも同じであったらしい。ようやく呼吸の仕方を思い出した、といわんばかりに深く息を吐き出し――あろうことか、彼は笑った。
「お前、意味をわかって言ってないだろう」
「い、意味って――」
 心の底からおかしい、と。目尻に涙までためて笑う声が、ひどくくぐもって聞こえることを感じ、テラはようやく、自分自身が男の腕の中に抱きとめられていることを痛感した。同時、目で見た時以上に厚い胸板や、着ているものの襟元からわずかに覗く鎖骨の窪みや――そんなものを意識してしまい、思考が止まる。
「そんなに緊張しなくとも、何もしないよ。――正直、そんなどころじゃないしな」
 わずかに眉を寄せて見あげた先、薄褐色の額には玉のような汗が浮き、逞しい肩は小刻みに震えてわなないていた。時折、こくり、と喉が動くのは、こみあげる悪寒をかみ殺している所為なのかもしれない。
 気がつけば、衣を隔てて触れているどこもかしこもが、火を吹くかというくらいに熱い。
「ルーカス、寒いの……?」
「いや、それほどでも――」
「もういいから。少し、黙ってて」
 声はまだ笑っていたが、辛くないはずもないだろう。目の前の広い背にそろそろと腕をまわし、テラはふと、頭上の羽目板の隙間からのぞく、荒れ狂う夜の空を仰ぎ見た。
 ――逃げてもいい。あなたが本当にそう望んでいるのなら。
 嵐の音は未だやまず、雨は斜めに戸板に吹きつけ、みぞれ交じりの様相を呈してきたらしい。夜はその闇を深め、世界はまだ一筋の光さえ得てはいない。
 しかしもしかすると、この一夜、夜の片隅で過ごしたこの一時こそが、<戦乙女>の娘と<黒宰相>が過去から――過去という名の呪縛から、はじめて解き放たれた瞬間であったのかもしれなかった。





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