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暁の彼方〜第十章 深い森〜




 宰相ルーカス・グリジアから無事を告げる報せが届いたという一報が、王宮内の敷地の一角、近衛隊長の異母姉の館に滞在していたテラの耳に届いたのは、空が重苦しい灰色の雲に覆われ始めた午後のことだった。
 恐らく初雪まで、もうそれほどの間はあるまい。そう思うほど、曇天は彼らの頭上に近いところにある。今朝方降った雨は氷雨(ひさめ)と呼べるくらいの凍った雨で、王宮内の噴水や植木の冬囲いの上で、氷の残滓がきらきらと瞬いていた。
「……これ、本当に?」
 それらすべてを見渡す館の一室で、テラは近衛隊長グレイと向き合っていた。
「ああ、あいつに読み書きを教えたのは俺だからな。間違いない。これはルーカスの字だ」
 既に封は切り取られ、インクの文字はとことどころが滲んで、読み取ることが難しいくらいに掠れている。しかし多少皺がよってはいるものの、破れたり汚れたりはしていない。この手紙がどんな行程を辿ったかは知れないが、無事に近衛隊長のもとに届いただけでも奇跡に近いといえるだろう。
「読んでもいい?」
「ああ、多分、あんたにあてたところもある……と思う」
 逸る鼓動を抑えて、丁寧に紙を押し頂く。
 自分が無事であることを告げ、長らく王宮を留守にしたことをわび、そして今は傷を負い、ある一座に匿われていることが丁寧な字体で記述されている。次いで、獅子はいまだ失われず、今しばらく黄金を待たれり。とあるのは、隣国サイファ公国の王家の紋が黄金の獅子であることの隠語だろう。
 そして――
「この一文はあんたあて、だろうな」
 グレイの指がたどる文面を、テラは息を呑んで見た。
 ――暁を抱く、龍の娘に会ったなら告げてほしい。
 今まさに、龍の力を得たいと欲す。よって今一度、生きて合間見えたいと願う、と。



 吹き荒れる風が粗末な屋根を打ち据え、四方の壁で影が踊る。その間近で瞬くのは、深紅に揺れる炎だった。
 ――どうして、こんなに気まずいのだろう。
 出会うや否や抱きしめられた時は、心の底から驚いた。しかしほんの一瞬、力強くテラを抱いた後、ルーカスはすぐに平静を取り戻した。次いで姿を見せたグレイに王家の森に賊徒(ぞくと)が侵入したことを告げ、王宮内の警備について指示を与える姿はどこからみても完璧な<黒宰相>のもので。
 結局、指示を受けたグレイが一足先に王城へ戻り、迎えの兵を待つまでの間、傍らの男が生まれ育った、王家の森で唯一といってもいい安全が確保された小屋で、テラはルーカスと気まずい沈黙を分け合っているのだった。
 ちゃぷ……と水温が響くのは、くみ出した水で、男が体を拭っている為だ。追っ手の目を逃れ、道なき道を歩み続けてきたというだけあって、ルーカスの肌には無数の切り傷や擦り傷が残されていた。通常ならば何ということのないそんな傷も、体力が落ちている時には膿を持ち、大事にいたる場合がある。
 ――手伝って、あげた方がいいのだろうけど。
 抱えた膝の上に顎を乗せ、テラは気配だけで、傍らの若者の様子を探る。
 どちらかといえば痩せぎすのルーカスではあるが、こうして炎のもとにさらされた体躯は若者らしく逞しい。意識しまいと思ってもどうしても目に入ってしまう褐色の背中の広さに、抱きしめられた腕の力強さを思い出してしまい、テラは自分の膝の上に、いっそうつよく顔を押し付けた。
 そうして視界を閉ざしながら、自分は何をやっているのだろうと思う。これでも戦闘者のギルドの女だ。傷の手当も男の半裸も、今更照れるほどのことではないはずなのに。
 よし、と。胸の内で呟きながら面(おもて)をあげたテラはしかし、その状態のままで固まってしまった。最前にあった時よりも少し痩せ、いっそう精悍さをました漆黒の眼差しが、まっすぐに彼女を見ていた。
「悪いが、そっちの台にある箱を取ってくれないか」
「は、はい!」
 言われて差し出した、一抱えほどの木箱の中を覗いて目を見張る。傷の薬に熱冷まし、疲労回復に足に張る薬草から内服用の解毒薬まで。戦闘者のギルドの里で育ったテラは、傷の手当や薬草については少々詳しい。しかしそんな彼女ですら想像もつかない程の種類の薬草や木の皮が、小瓶にわけて保管されている。
「あの、これって――」
「ああ、昔の」
 上手く腕に力が入らないのかもしれない。小瓶の栓を口でくわえて捻りながら、ルーカスは言う。
「俺の趣味だ」
 ――趣味?
「いや、趣味というか……あの頃は、先の見通しなんか何もなかったからな。せめて何か手に職でもつけろと、シリウスが俺に教えた」
「シリウス3世が……」
 王家の森にうち捨てられた王子に、心をかけた皇太孫。十数年後、彼らの歩む道がこんな風に分かれることになるなどと、一体誰に想像ができただろう。
「……そのまま、薬師にでもなってしまえばよかったのに」
「――1つ、聞いていいか」
「はい?」
「あの賊は……お前達とは無関係なのか」
「!」
 何気ない口調で問われた言の葉が、想像以上に胸に刺さった。この小屋について以来、彼が決して剣の柄を手放そうとしなかった意をようやく、知る。
 ――疑っていたのか。あたしを。
 今はもうテラとルーカスの間に貸し借りはない。彼にとって彼女は戦闘者のギルドの女だ。森の中の血痕も、王家の森に足を踏み入れた賊も、すべてはテラの手引きしたことだと。
 以前グレイに疑いの目を向けられた時のように、仕方ない、とは思えなかった。ただむしょうに胸が痛い。森のなかで血だまりを見つけた時の衝撃を、先ほどであった時に感じた安堵を――口にしても無駄だとわかっていることを、言い募ってみたくなる。
「そんな顔をするな。責めているわけではない」
 身支度を終え、上着を着込み、最後に熱冷まし用の葉を口の中に投げ込んで、ルーカスはその場に立ち上がった。ゆらりと囲炉裏の炎が揺れ、現実よりもずっと背の低い影が四方に散る。その手がしっかりと剣の柄を握り締めるのを確認し、テラは思わず、声を張り上げた。
「な……、ちょっと待ってよ。どこに行くの?!」
 風が木々の枝先をすり抜けるすすり泣きめいた旋律に合わせて、粗末な小屋全体がぎしぎしとしなる。晩秋の森は、陽が落ちるとほとんど真冬と変わらぬくらいの冷え込みようを見せる。炎を囲んでいればそれほど寒くは感じなくとも、いったんその恩恵を離れてしまうと、身じろぎが出るほど寒い。
 小屋の戸を押し開けようとする男の右腕を、テラはかろうじておしとどめた。
「――そこをどけ。小屋を出る」
「ルーカス?!」
 熱がある。浅からぬ傷も負っている。それどころか小屋の外には、森に侵入した賊までいる。
 ――何を考えているのだ、この男は。
「ルーカス!ねえ、待って――」
 一瞬、苦しそうに顔をゆがめたのは、テラの声に驚いただけではないだろう。先ほど衣服を改めた時、彼の包帯からは少なからぬ量の血が染み出ていた。
「手を離せ。迎えが来るまで、お前はこの小屋から絶対に動くな」
 力任せ、というよりは、力の加減ができる状態ではないのだろう。強引に腕を振りほどかれ、勢いあまって床の上に突っ伏した。何か言おうと大きく息を吸い込んだ瞬間、激しい雷鳴が鳴り響き、こつこつと、何かが屋根を打つ音がする。無意識のうちに頭上を見つめあげると、ルーカスもまた、外の様子が気になるのだろう。眉を寄せ、揺れ動く天井を見つめている。
「どうして……」
 ――彼もまた、生きて再び会いたいと、願っていてくれたのではなかったのか。
 先ほどまで、外では風が荒れ狂っていたものの、空にはまだ重くるしい闇色の雲が垂れ込めていた。しかしどうやら天という名の敷布が、ついにその重みに耐えかねたらしい。大地は今、本格的な野分(のわき)の季節を迎えようとしていた。






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