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暁の彼方〜第一章 赤髪(せきはつ)の踊り子〜



 2
 グリジア王国宰相、ルーカス・グリジアの日々は過酷である。
 彼は眠らない。いや、眠っていないかのように見える。宰相の地位につくと同時に、王宮の敷地内に官邸を与えられてはいるものの、ほとんどそこには帰らずに、日の寝起きから食事まで、一切を執務室がわりの王宮の2階で行っているという、もっぱらの噂である。
 事情を知らない他国の官吏が宰相を訪ねて官邸を訪れて、そこに大蜘蛛が堂々と巣を広げているのを見つけ、逃げ帰ったという逸話まである。裏玄関ではない。官邸の正門での話だ。
 無事に王宮舞姫として宮殿への出入りを許されてからというもの、テラはそんな話を、半ば感心しながら、そして半ばあきれながら、ぽかんと口を開けてやり過ごしていた。
 彼女の担う役割は、王家専属の舞姫として王宮の奥深くに入り込むこと、そして来るべき日にギルドと呼応して、彼らをその内側へ招き入れることに他ならない。
 それまではせいぜい王族や宰相閣下に媚びを売って、追い返されることなきよう努める以外にはすることがない。しかし媚びを売るべき当の相手が、ひながうわさ話に花を咲かすしかない能なしと、激務に追われて眠る暇もない仕事狂というありさまなのである。
 ――正直、3日でほとほと飽きてきた。



 吹き抜ける風にそよぐ梢から、真っ白な羽根を持つ小鳥が飛び立った。くちばしに何か赤いものを加えている。すぐに呑み込まないところを見ると、きっと巣へ持ち帰るのだろう。
 3年ぶりに訪れた王家の森は、かつてとは違ったざわめきで、テラを迎え入れた。
 木漏れ日は斜めに大地を照らし出し、昼なお薄暗い森中にあっても寒いということはない。それどころか、時折風が通り過ぎるたびに発する葉擦れの音に、思わずここが王都のど真ん中であり、なおかつ禁忌の森であるという事実を忘れそうだった。
 3年前の冬、この場所では絶望と死が渦巻いていた。しかし同時に、永遠の暗闇に落ちて行くはずだったテラを救い出したのもまた、この場所なのだ。
 あの夜、打ち付ける雪の礫と、風の刃からテラを守り抜いた森小屋。今にも朽ち果ててしまいそうな姿だが、それでもあの夜は薄い壁が、どれほど逞しく思えたことか。
 その場所に、彼はいた。
「――そこで何をやってるの?」
 わずかばかりの土間と、そこに並ぶいくつかの瓶。木板の壁はすかすかで、窓は開いていないはずなのに、外の日射しが直接、小屋の中に降り注ぐ。3年前赤々と炎を灯した囲炉裏には黒々と灰がつもり、わずかばかりの空気の流れに合わせて、積もり積もった埃がちらちらと空間を舞う。
 壁に備え付けられた一対の寝台。テラの両手でも抱えられそうなくらいの大きさの衣装箱の数は1つしかない。
 庶民の住まいにしても、かなりささやかな。お世辞にも裕福とは言い難い。だけど彼があまりにもその場にとけ込んでいたので、驚きより先にその場の空気に呑まれてしまい、しばらく声が出せなかった。
「……それはこっちの台詞だ」
 長い足を投げだし、斜め下からテラを見上げながら、若い男は心底あきれたような顔をしていた。
 初めて会ったときより、顎の線が鋭くなって、身体つきにも多少たくましさを増したようだ。当然だろう。今が20歳ということは、彼だってあの当時、まだ17の少年に過ぎなかったはずだから。
「王宮舞姫が、王家の森に何の用だ?」
「あなたこそ。お忙しい宰相様がこんなところで油を売っている暇があるとは思わなかったわ」
 一国の宰相ともあろう男が、護衛さえ連れずに。
 くくっと、男は喉奥だけで笑う。きちんと会話を交わしたのはこれがまだ2度目だが、歌でも歌わせてみたくなるような、いい声をしている。
 床の上に座ったまま、彼はテラを見つめあげる。口の端に、どこか嘲笑にも似た表情が浮いた。
「化粧を取るとまるで別人だな。それだけ違うと、立派に詐欺だぞ」
「なっ!」
「胸の辺りもな。どうやって上げていたか知らんが、この前とは随分感じがちが――」
 がしゃん、と床に破片が飛んだ。耳まで真っ赤に染めたテラが、瓶を掴んで投げつけたからだ。薄汚れた硝子瓶が木の壁にぶつかり、粉々に散る。
 かなりの速度で投げつけられたそれを、難なく避けた若者が、声をあげて笑い出した。記憶にある3年前の彼よりは、ずっと明るい笑い方だった。
「なんだ、我が身武器に王宮に入り込もうっていうんだから、もっと澄ました女かと思えば、意外に単純なんだな」
「……」
 間近で見ると、思っていたよりずっと綺麗に澄んだ目をしていた。凍てついた夜の湖のような瞳だ。それは本来、人に不快な印象を与えるものではないはずなのに、彼に限っては、むしろ冷酷な印象を覚えることに、テラは驚いた。
「宰相さ――」
「ルーカスでいいぞ」
「あなたは、3年前の冬にここで……」
 彼は――彼だけは知っているはずなのだ。テラが王宮に召し上げられることだけを望む、ただの踊り子ではないことを。
「3年前?」
「……」
「そういや、3年前、ここで珍しい犬を拾った」
 ――犬?
「翠の目をした、赤毛の犬だ。よりにもよって王都のど真ん中で凍死しかけてたから、哀れに思って連れてきてやったのに、きゃんきゃんうるさくてかなわなかった」
「!」
 かあ、と再び頬が熱くなる。人をからかうのもいい加減にしろ、そう言ってやりたかったのに、彼の漆黒の瞳に射抜かれて、結局言葉は喉まで浮かんだまま、声になることはなかった。
 ふと、思い出す。
 3年前、宰相――ルーカスはこの小屋は母親と暮らしたかつての家だとテラに告げた。その時彼が見せた表情。まるで暗い淵の端に立ち、風に吹かれながら真下を見下ろしてでもいるかのような。
 思わず、言葉が口をついて出た。
「お母さんは……いつ亡くなったの?」
「はあ?」
 テラの言葉に、ルーカスは閉じかけていた瞼を開けてまじまじと彼女を見る。
「だれも、死んだなんて言ってないだろう」
「え、だって、……」
 目顔、という言葉がある。もしくは表情が訴える、ということが。
 子供の頃、母親と暮らしていた。そう言い切った時の彼の表情が、あまりにも暗かったので、そう思いこんでしまったのだ。
「……まあいっそ、その方がよっぽど良かったかもしれんが」
 それはどういう意味なの、と問いかけより早く、ルーカスは空を仰ぐような仕草を見せた。テラも思わず同じ所を見てみたが、そこには雨漏り跡も鮮やかな木目の天井以外、何も見えなかった。
「――何しにここに来たのか知らんが、邪魔をする気ならたたき出すぞ」
「邪魔って、何をよ?」
「寝る」
 言うが早いが、言葉が寝息へ変わったのがわかった。テラは今度こそ本当に心底あきれて果てて、彼を見た。
 初めて会った時にも感じたことだが、何とまあ、器用な男なのだろう。眠りに落ちるまでものの1秒とかからないのだから。
「やっぱり、変な人……」
 テラは寝息を紡ぐ若者の傍らに膝を落とし――そろそろと、指先をその首筋へ向けた。
 ――今なら、殺せる。
 この無防備な男を。素手でだって。
 例え武具を持たずとも、戦闘においてギルドの戦士にかなうものはない。何しろ戦うということにおいて、彼らはこの国で最強なのだから。
「……・」
 しかし結局、テラの両手が男の首に触れることなかった。
 しばらく無言でルーカスを見つめた後、テラはそっとその場を後にした。心のどこかで、彼が自然に目覚めるその時まで、その眠りを妨げるものがないようにと祈っていたが、それがどんな感情に由来するものなのか、自分でもまだよくわかってはいなかった。






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