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暁の彼方〜間章 この空が青いのは〜




 
翌日も、そのまた翌日も森を訪れたが、少年は姿を現さなかった。王都の子供が誤って迷い込んできただけだったのだろうか。しかしそう考えるには、少年は王家の森に慣れすぎているように見えた。
 王家の森に、王都側から入り込む民はいない。見つかれば罪と決まっているからでもあるし、かなり複雑な森の地形は、その場を知らない人間には危険すぎるからでもある。
 ――まさか、王都の誰かが、孤児を使って王家の森の果実を盗んでこさせてるとか……いや、まさかな。
 2年前までのグレイは、いつも腹を空かせ、継ぎはぎだらけの服を着た王都の浮浪児でしかなかった。正妻の悋気を恐れて王宮を出された母親は病弱で、母と別れる前の1,2年は、かっぱらいや物乞いでグレイが彼女を食べさせていたのである。
「――よお」
 行く当てもなくぶらぶらと森の中をさまよっていたグレイは、目当ての人物を見つけて歩みを止めた。相変わらず継ぎはぎだらけのぼろを身にまとい、少年は腕の中に、子供の野うさぎを抱いている。
 グレイの姿を確認すると、彼は踵をかえして逃げ出そうとした。その行動を想像していたので、グレイは彼が完全に身を翻す前に、懐に収めていたものを取り出す。
 少年が怯えないように、ゆっくりとした口調で話しかける。
「リンゴ、嫌いか?嫌いじゃなかったら、来いよ。一緒に食べよう」
 初めて会ったとき、グレイは彼がひどく飢えていることを悟っていた。身に着けているのがぼろである点を除けば、取り分け薄汚い容姿をしているわけでもなかったが、それでも彼が親に十分な食事を与えられる境遇でないことは明らかだった。
 そろそろ、と少年は腕を伸ばす。むき出しの細い二の腕の、無数の痣や切り傷が痛々しい。
「どうして……」
「俺さ。妾(めかけ)の子なんだ」
「……」
「あ、妾ってわかんなかったか?……つまり、お袋と血がつながってないからさ。邸の連中もみんな俺を馬鹿にしてるし、従兄弟とかはやたらといっぱいいるんだけど、みんなお高くて話になんねぇ。つまんないんだよな」
 グレイから受け取った果実に歯を立てて、少年は軽く小首をかしげる。果たしてグレイの言葉のどれだけを理解しているのか、怪しい気がする。
 こうして間近で見ると、目鼻立ちの整った、可愛らしいといっていいくらいの子供だった。髪も短く切りそろえられているし、よく見れば着ているぼろきれも、ただぼろなだけでなく、洗濯を繰り返したような色あせがある。
 半分ほどを一気にほおばり、ようやく少し落ち着いたのか、少年はグレイに近づいてきた。2人で並んで、草むらに腰を下ろす。
「俺はグレイ。おまえは?」
「……ルーカス」
「へえ、いい名前じゃないか」
「僕は……僕の母さんは本当の母さんだよ」
「そりゃ良かった。んで、父ちゃんは?」
「わかんない」
 少年の回答に、目をしばたたく。実を言うとグレイも父親の顔を知らない。彼が義母のもとに引き取られたのは、近衛隊長だった父親が死んだ後だ。
「時々、夜になると男の人が家に来るんだ。だからその人が父さんかな、と思ったんだけど……」
「そうなんじゃないのか?」
「でも、でもね。1人じゃないんだ。夜に母さんのところに来るのは。どれが僕の父さんなんだと思う?」
「……」
 何とも返答のしようがなく、グレイはしゃりしゃりと林檎をかじった。もぐりの娼婦か、それとも「副業」か。ルーカスにはまだ意味がわかっていないようだったが、グレイはその意味がわかる。だがさすがにそれを、この年下の少年に説明する気にはなれなかった。
「もしも父さんがいれば、母さんは泣かないのかな」
 ぽつり、とつぶやく。2人の足元をうろついていた野うさぎが、何かの気配を感じたのか、すばやい動きで緑の彼方へ消え去る。ルーカスはその場にかがみこみ、特徴あるぎざぎざのついた葉を、片手で器用にもぎとった。
「これ、傷薬になる」
「へえ」
「こっちの葉がまるいのは、すりおろすと毒消しに。煮ると毒になるから、畑に使うと虫が来ない。……この花は打ち身に効くよ」
「すごいな。お前の母ちゃん、薬師か?」
「ううん。これは、お兄さんが」
 その瞬間、ルーカスははじかれたように顔をあげた。それが先ほどのうさぎの動きとあまりに良く似ていたので、グレイは驚いて彼を見た。ルーカスは微動だにせず、彼にだけ感じることのできる微細な空気の流れを感じ取ろうとしているかのように、目を見開いていた。
「戻らなきゃ。……りんご、ありがとう」
「――おい!」
 引き止める間もなく立ち上がり、木々の生い茂る森中へと駆けてゆく。その瞬間、グレイは駆けてゆくルーカスの首筋に、まるで誰かに締め上げられた跡のような、生々しい指痕が残っていることに気がついた。



 夜の帳が下りた王家の森に、煌々と月明かりが注ぐ。驚くほど白くて大きな満月と、そこからあふれ出す蜻蛉のような白靄に包まれて、森の内部は灯火なくとも足元に困らないほどに明るい。
「くたばりやがれ、くそばばあ!」
 ――こんなところに、これ以上いれらるか。
 グレイはわずかばかりの荷物と金を背に負って、森の中を駆け抜けていた。もう少し行けば、鬱蒼と木々茂る薄暗い闇の中に到達する。そうしたら森中で一夜を明かし、朝日とともに王宮の外へ抜け出すつもりだった。
 もともと、かっぱらいと物乞いで食べてきたのだ。一晩や二晩の野宿でどうにかなるほどやわではないし、自分一人の口くらい自分で十分に養ってゆける。
 邸に引き取られて2年間、必死に耐えてきたものがこらえきれなくなって、この夜、彼は初めて義母に手をあげた。わずか10歳とはいえ、近衛兵になるべく剣術を仕込まれ、はしっこさにかけては人一倍の少年の一撃に、義母は頬を抑えて倒れこんだ。――これでもう、あの邸にはいられまい。
 自分はいい。いくら蔑まれても。手癖が悪いのも、学がないのも本当のことだ。しかし、病と貧苦に擦り切れるようにして死んでいった母親を娼婦と侮る彼女の言葉だけは、どうしても我慢しきれなかったのだ。
 唐突に、背後でがさり、と枝が揺れた。地面の低い位置を、何かが這うように移動してくる。グレイは思わず落ちていた棒切れを拾い上げ――愕然とした。
「ルーカス?」
 グレイの目の前で、少年は横向きに倒れこんだ。唇から一筋、赤いものが滴り垂れてゆく。しゃがんで肩に手をかけると、氷のように冷え切った両手と足が、小刻みに痙攣していた。
「どうしたんだ、お前――」
「……もう、終わりにしようって」
 腕といい足といい、無数にあふれた傷跡には、古いものと新しいものが入り混じっている。間近で確かめ、確信する。これは、日常的に暴行を受けているものの体だ。
「ルーカスお前、まさか誰かに何か飲まされたのか?」
「母さんも飲むから、一緒に行こうって」
「お前――」
「僕が……、僕が生まれた所為で、こんなことになったんだって。僕がいなければ、こんなことにはならなかったって、いつもそう言って、僕をぶつんだ。ぶって首を絞めて、……だけど、泣くんだ」
「……」
「お願い。母さんを助けてあげて」
 肩で荒く息をしながら、少年は漆黒の目を閉じる。彼がそのまま闇に溶けて消えてしまいそうな気がして、グレイは震え上がった。
「――馬鹿やろう!目を開けろ、人のことより、自分のことを考えろ!」
 自分の子供をぶん殴るやつなど、人間のくずだ。それ以前に、自分の不幸だけ見て嘆くしか能のない人間は、人間を名乗る資格だってない。
 幸いなことにグレイの母親は、貧しくこそあれそのどちらの人種でもなかったが、どうやらこの子供は、くず以下の人間のところに生まれてきてしまったらしい。
 グレイは荷物の包みを投げ捨てる。不思議なことに、先ほどまでの、逃げ出したいという強烈な欲求は薄くなっていた。そもそも、逃げ出したところで、行くあてがあったわけでもない。どこにも帰るところはない。帰ったところで、待っている人はいない。――自分にも、この子供にも。
 動かなくなった子供の身体を肩に負い、今来た道をよろよろと歩き出す。力を失った人間の身体は、想像以上に重い。何度も足を取られそうになりながら、グレイは必死の思いで声を張り上げた。
「いなけりゃいい人間なんか、この世に1人だっているもんか。お前のお袋が何て言ったが知らんが、お前は俺の友達だ。王宮でできた、たった1人の友達なんだ。絶対に、いらなくなんかないからな!」



 扉をあけて手招きすると、ルーカスは渋い顔でグレイを睨んだ。3つも年下のくせに、今ではグレイより背が高くなってしまったルーカスと話すときは、自然、グレイが彼を見上げる形になる。
「何で、俺がお前の女遊びの手助けをしなけりゃなんないんだ?」
「そう言うなって。宰相閣下との逢瀬1回で、ご令嬢の部屋に忍んで行くのを黙認してもらえることになったんだ」
「お前、そういうときだけ、俺を閣下扱いするなと何度言えば……」
 うんざり、という態度を隠そうともせずルーカスも扉の内側に身を滑り込ませる。待ち人の登場に、若い娘が頬を染めて彼を見た。
 含み笑いを浮かべながら、グレイはルーカスの耳元にささやきかける。
「なあ、結構、お前の好みだろう?」
「だから、どこでそういう情報を……」
「お前が前に入れあげてた、あの娼館の女に似てるだろ」
「入れあげてなんかいないし、大体、あれもお前が無理やり連れて行ったんだろうが!」
 目の前の年若い女に見つめられ、ルーカスは言葉を失って2、3歩後ずさった。褐色の頬にわずかばかりの動揺が走り、助けを求めるようにグレイを見る。グレイとは異なり、この若者は女の扱いにはてんで疎いのだ。
「がんばれよ」
 くつくつと笑いながら、グレイは手燭の灯りを手に、部屋を後にする。
 しかし、と心の隅で考える。しなやかな体と美しい金色の髪を持った、なかなかの美人の娘だった。彼女がお目当ての令嬢おつきの侍女でさえなければ、みすみす友人に差し出したりせず、こちらこそお相手して欲しかったくらいだ。
「……まあ、あいつにも、たまにはこれくらいの息抜きがあったっていいか」
 ルーカスの方が一晩中ここにいるかはともかく、彼は今宵、自邸に帰るつもりはない。
 弾む足取りを隠そうともせず、グレイは廊下を忍び歩く。現在、恋仲の大臣家の令嬢の寝室は、このすぐ先である。

 近衛騎士隊長グレイ・クレスタ、グリジア国宰相ルーカス・グリジア。彼らは現在、無二の友として、グリジア王国宮殿にある。





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