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暁の彼方〜間章 この空が青いのは〜




 夜空を吹き抜ける風の音に混じって、すさまじいまでの轟音が鳴り響く。木々の梢が、風に吹かれて揺れる音。しかしそうとわかっていても夜の森の光景は、齢わずか7歳の少年には過酷過ぎた。
「お母さん……」
 少年は、夜空と同じ色をした瞳を空へ向ける。わずかばかり与えられたパンと菓子は、既にどこかへ消え去っていた。手にした毛布にくるまろうと思っても、夜の音が怖くて、とても外でなんて眠れそうにない。だけど母が決して戻ってきてはいけないと言ったから、彼はきっと口を結び、今にも泣き出しそうな心細さに耐えながら、夜の「王家の森」を歩く。
 しばらくそうして歩いていると、不意に目の前が開け、藁葺き屋根のいかにも粗末な小屋が現れた。同じ所を何度も何度もぐるぐるまわって、「帰ってはいけない」と言われたまさにその場所へたどり着いてしまったらしい。
 彼の「家」はこの場所だ。この場所で彼は母親と2人、誰にも知られることなくひっそりと生きてきた。
 心細さに、少年は泣きそうになる。こんなに近くに自分の「家」があるのに。そこには若く美しい母も、温かくて安全な寝台もあるのに、どうして僕はこんなところで、震えていなければならなんだろう?
 小屋の入り口は、内側からしっかりとかんぬきがかけられていた。いつもそうだ。あの「男」が来る夜、母は彼を追いだした後、いつもそうして鍵をかける。
 母と彼の「家」に時折訪れる「男」。ほとんど白に近い薄い色の金髪をした、母よりも――そしてごく稀に彼を訪ねてくる「お兄さん」よりもずっと年上の男のことを、彼はあまり好きではない。
 男は少年を終始ないものとして扱う。だから何度顔を合わせても、彼は男の声を聞いたことがない。
 たった1つの窓の下には、いくつかの薪の束が、積み重ねられていた。「お兄さん」と彼がこの前、冬に備えて森の木々から切り出したものだ。
 幼い彼の身体は、薪の束を崩すことなくその上に乗った。もしも母に気づかれないようなら、このまま窓から家の中に入り込んで、窓の下の行李の中で寝ようと思ったのだ。
 窓枠に両手をつき、腕の力で上半身を引き上げる。そして、少年は小屋の中の光景を垣間見た。
 最初、彼は母が殺されかけているように思った。裸の男が母に背後からのしかかって、彼女の首を締め上げているかのように。だけど男が身体を動かして、まるでその動きに合わせたかのように母が喉を逸らし、そしてその顔に浮かぶ、苦痛とはほど遠い恍惚の表情を見て、彼はそろそろと腕を動かし、震える足で地面に下り立った。
 ――これは、「お母さん」じゃない。
 ここは、僕の家じゃない。
 薪の山の下にうずくまり、両手で頭を抱え込む。可能な限り小さく丸まり、怯えた獣のように震える少年の背中の上を、夜の風が撫で上げる。
 ついさきほどまであれほど恐ろしかった風の手が、まるで慈しむかのように彼を取り囲む。
 そうしても耳を塞いでもなお、母と男の身体の下できしむ寝台の音だけが、いつまでもいつまでも少年の耳奥に響いていた。



「――あんの、くそばばあ!」
 叫び声と同時に梢が揺れ、小鳥が何羽も空へ向かって飛び立った。目を奪うほど真っ青な空から、緑の木の葉が何枚も何枚も降ってくる。肩の上に落ちてきたそれらを乱暴に振り払いながら、グレイはさらに大きな声を出してわめき続ける。誰か見るものがあったなら、少年の気がふれたかと疑ったかもしれないが、あいにく、彼はまったくの正気だった。
「何が、我が家にはしきたりというものがございまして、だ。大臣家の元・令嬢だかなんだか知らんが、豚みたいな鼻ならして、お高く止まんのもいい加減にしろてってんだ!」
 代々、グリジア王国近衛隊隊長を勤めるクレスタ家の長子、グレイ・クレスタは当年10歳。恥知らずの父親が、台所勤めの下女に生ませた妾腹の男子で、2年前まで母親と王都で暮らしていた。8歳の年に父親が亡くなり、亡き父の正妻のもとに引き取られはしたものの、この義母との折り合いは極めて悪い。家柄だけを誇りに嫁に来た彼女にしてみれば、夫が身分もない女に産ませた子など触れるのも汚らわしいのだろう。……はなから、うまく付き合え、という方が無理なのだ。
 足元に落ちていた小石を拾い上げ、どこというあてもなく思い切り投げつける。少年の荒っぽい八つ当たりに、草を食んでいた野ウサギが一匹、驚いたように駆け出した。
 途端、ぐるる……と腹が鳴った。怒りにまかせて邸を飛び出してきてしまった所為で、今日の昼食を食べ損ねたのだ。育ち盛りの少年に、一食の欠如は痛い。
 グレイは再び小石を構え、頭上の枝に向かって投げつけた。狙いは見事に命中し、真っ赤な木の実が枝ごといくつか落ちてくる。手にとって匂いを嗅いでみると、甘酸っぱい香りがする。――食べられそうだ。
 着ているものの袖で表面を拭い、グレイがその実にかぶりつこうとした、まさにその時だった。
「それ、食べない方がいいよ」
 思いがけず人の声を聞き、グレイは手にした木の実を取り落としそうになった。
「食べたら、お腹壊すよ」
 ――黒い子供。
 年の頃ならグレイよりも少し年下か。目の前に現れたのは、まさしく、そんな表現がぴったりという風貌の少年だった。漆黒の髪と、それと同じ色の瞳。褐色というにはやや白い肌も、王宮の人間としては例外的なほど浅黒い。
 痩せこけたからだに纏っているのは、クレスタ家では雑巾にしかなりそうにないぼろきれである。しかし8歳まで市井で育ったグレイは、それがところどころ継ぎはぎされ、少年の成長に合わせて作り変えられている、紛れもない「着物」であることを知っている。
「あ、あのね……ジャムにすれば食べられるんだけど、それ、生で食べるとお腹痛くなるの。あっちの黄色の実なら、食べても痛くならないよ」
 年齢のわりに、言葉遣いがたどたどしく、語句もあまり豊富とはいえない。まるで誰かに教えられた台詞を、そのままたどってでもいるかのようだ。
 思わず痛ましい、と思ってしまったのは、わけのないことではない。街場の子供は総じて早稲(わせ)だし、宮殿内で育つ子供はこしゃまくれていて、このくらいの年になればいっぱしの大人のような口を利く。いかにも栄養が足りていなさそうな容姿といい、迂闊に手を伸ばすことを躊躇わせる雰囲気が、幼い子供の周囲を取り巻いている。
 グレイは、そろそろと口を開いた。
「お前……、誰だ?」
 グリジア王国の王都の中心部に広がる密林――通称「王家の森」は代々の王家の私有地で、一般の民が侵入することは許されない。それに宮殿内に暮らす子供は少ないから、同年代の子供はみな、顔見知りだ。
 ――こんな子供は知らない。見たことさえもない。
「森に迷い込んだのか?家はどこに――」
 グレイの言葉に、少年は怯えたようにびくり、と体を震わせた。生い茂った緑の草むらの中に、黒い頭が揺れる。やがて向きをかえ、一目散に駆け出した。咄嗟に伸ばしたグレイの指先は、虚空を掴んで葉先をかすめる。
「お、おい!待てよ。どこ行くんだよ!」
 少年は止まらない。もう1人の少年――グレイは呆然と、去ってゆく小さな背中を見つめることしかできなかった。



「――王家の森に、子供が?」
 グレイの言葉を聞いた途端、テリーゼは形良い眉をひそめて彼を見た。クレスタ家の長女である彼女は昨年、めでたく王族の一員である男のもとに輿入れした。あのくそばばあ――もとい義母上の腹から生まれたとは思えないほど、気立ての優しい女性である。
 彼女の優しさは、ある日突然、父親が母以外の女に産ませた弟が邸にやってきても変わらなかった。以来、グレイは彼女を食事場所――否、避難場所として、便利に利用しているのである。
「それでグレイあなた、その子供と話したの?」
「う〜ん、話したっていうか、逃げられたっていうのか」
 ぽりぽり、と頬を掻いていると、何を勘違いしたのか、召使の1人がグレイの前から皿を取り上げた。去って行くパンの残骸を恨めしげに見つめながら、少年は息を吐く。
「あのガキがなんで王家の森にいるのか、知ってるのか?」
「……知っている、というわけではないわ。私も夫から聞いただけで詳しくは……」
 妙に、歯切れが悪い。訝しげなグレイに見あげられ、テリーゼは困ったように微笑む。敵陣にただ1人、四面楚歌で戦い続けているような気分でいるグレイは、異母姉のこの顔に弱い。テリーゼがまだ嫁ぐ前、夜中にこっそり荷物をまとめて出で行こうとしては、この顔に見つけられて諦めた。実は彼女がクレスタ家で最強なのではないか、と密かに思っていたりする。
 テリーゼの婚家は王宮内の一角にあり、クレスタ家の邸からほど近い。義兄は宮廷内で官職を持っており、格別に裕福ではないが貧しくもない館の内側は、夫人の人柄そのままの、温かな色彩で彩られている。
「……」
 だからだろう。ここにくるたびに、王都の一角の、生みの母と暮らしていたたった一間の家の光景を思い出してしまうのは。
 ぐるり、と辺りを見渡して、綺麗に磨かれた硝子戸の内側に、籠に入った、鮮やかに赤いものを見つけ、グレイは目を輝かせた。
「姉さん」
「なあに?」
「……あのリンゴ、貰ってってもいいか?」
「いいけど、何を考えてるの?」
「別に」
「嘘おっしゃいな!」
 嘘を言ったつもりはない。何もたくらんでなどいない。
 ただ妙に、あの子供のことが気にかかる――それは事実だった。





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