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暁の彼方〜番外編 Long way home



 記憶にある一番古い光景。それは茜色の陽射しの下で微笑む彼女の姿だった。


 長く険しい冬を前に、一時(いっとき)、グリジア王国は賑やかになる。短い夏の恵みを存分に受け取った麦穂がたわわに首(こうべ)を垂れ、人々は収穫の季節を祝い、踊る。
 秋が実りの季節であることは、外界から遮断された禁忌の森であっても変わりはない。だがその日、秋の実りを口に含んだ獣が行き交う森の中で、彼は、腹を空かせていた。
 あれは幾つの頃だったろう。五歳か六歳――おそらく、七つの歳は超えていなかったように思う。ある程度知恵が回る年頃を迎えると、彼は王城の厨房に忍んで残り物を漁るという術を身につけていたので。
 ほとんど地面すれすれまで枝を伸ばした大木に寄りかかるように建てられた小屋から、甘い匂いが漂っている。触れた端から朽ちて行きそうな戸を押し開けて、少年は幼い目を見張った。
 いくつも並んだ皿に果物や野菜、それに小麦を蒸して作られた蒸し菓子。
 あの頃、彼の口に入ったのは一日に乾いたパンの一切れと、干し肉か川魚を煮込んだ椀の一つが精々で、それだって当時の母子にとっては精一杯の食卓だった。
 腹と背がつくかと思うほど腹が空いているのに、容易に手を伸ばせなかった。何かを求めて伸ばした手が容易に振り払われ、踏みにじられることを、彼はあまりにも早くから認識してしまっていた。
「母さん……」
 豪華すぎる食卓の向こうに、黒い髪を梳き流した若き日の母の姿がある。
 優しさと狂気の間を行きつ戻りつしながら、ついには振り切れた精神の糸。だがその頃の彼女の心境が理解できるようになったのは、当時の彼女の年齢を超えてからで、子供過ぎた彼はいつもただ亀の子のように首を竦めて、狂気の嵐が過ぎ去るのを待っているしかなかった。
 だがその日、帰宅した幼い息子を見て、彼女は確かに微笑んだ。もしかするとそれは、悲しげな微笑と呼ばれるものであったのかもしれない。だがあの時、彼女は確かに笑って言ったのだ。
「―――」
 あの時、母が何と言ったのか。その言葉が、どうしても思い出せない。



 夕刻を告げる鐘が鳴る。夕暮れ時に王城を出たルーカスは、凝り固まった首筋を揉み解しながら、家路を辿っていた。暮れなずむ空は茜色、遠くの稜線を黒い鳥が群れを成して横切って行く。
 立場上というべきか職業柄というべきか、宰相であるルーカスが帰宅する時間はまちまちだ。深夜の日付が回った頃に帰り着いたかと思えば、三日三晩徹夜して、空が白む頃に倒れこむように官邸の戸を叩いたこともある。
 それに比べれば、本日の帰宅時間は極めて真っ当だった。夕刻には帰ると使いを出しておいたから、結婚して間もない妻と久方ぶりの夕餉を囲むこともできる。
 宰相を拝命すると同時に賜った官邸は、彼が家庭を持つまでは、ほとんど住居としての用を成していなかった。今は使用人の老女に庭師を加え、一応、人並みの生活を営めるまでに回復している。
 夫妻と使用人しか暮らしていない官邸には、門番の警護の兵もいない。日中に訪れる庭師や下働きの小女が帰ってしまうと、家の中はいつも静かなものだ。だがそれにしても、今日はやけに静か過ぎやしないか。夕暮れ時を迎えたというのに、灯火を灯した形跡もない。
 訝りながら居間の扉を開けて、ルーカスは目を見張った。夫婦二人の生活には大きすぎる食卓に並んだ皿の数。果物や野菜はもちろん、胡桃の餅や、鶏胸肉を煮込んだ鍋もある。
 まるで新年の祝いと収穫祭が一気に訪れたかのような――しかもなんだか、やけに俺の好きなものばかりが並んでないか?
「――まあ、ルーカス様、もう帰ってきてしまわれたのですか」
 立ち竦んだ男の背後で、大きな鍋を抱えた老女がそうのたまった。自分の家に帰ってきて、帰ってきてしまわれたも何もないものだが、老女の後ろから顔を出した女――かつての親友の義姉であるテリーゼもまた、老女と同じように顔を歪めていた。
「あら早かったのね、ルーカス。もうちょっと遅いかと思って、びっくりさせてあげようと思ったのに」
「いや、びっくりって。しかし何の騒ぎですか。これは」
「まあ、やっぱり忘れていたのね?今日は貴方の誕生日じゃないの、ルーカス」
 ……ああ、そういえば。
 これでも一応王の子なので、生まれた日の記録は残っている。もっとも、その日を祝う意味は歳と共に薄れるものだ。それ以前に、彼には自分がこの世に生まれ出たことを祝うという気持ちがはなからなかった。
「もうちょっとで準備が終わるところだったのよ。テラ、ルーカス、帰ってきちゃったわよ」
 呼ばれて振り返った彼女は、人間の顔の大きさもあろうかというほどの、焼き菓子の皿を抱えていた。漂う甘い香は林檎だろう。秋口に王宮の庭園で収穫されるものだ。
 菓子の類は特別好きではないが、格段苦手ということもない。徹夜が続くとむしょうに欲しくなることがあって、以前、彼女が食べていた端切れを頂戴したことがある。そんな時、彼女は酒を飲まない男が甘いものを好むという俗説が、事実であることを知ったと言って笑っていた。
「大丈夫。今、ちょうど焼きあがったところよ。お帰りなさい。ルーカス」
 こんな時、いつも微かに吸い込む呼吸の音は嗚咽に近い。
 祝ってくれるのか。お前は。俺が今ここにこうしてあることを。
「さあ、早く座ってくださいましな。ルーカス様」
「そうよ、逃げようっていっても無駄よ。もうすぐうちの旦那も来ますからね」
 四方を山に囲まれた王都の黄昏は長い。宵闇が漂う時刻になっても西の空には一筋、茜色の名残火が残る。
 不意に既知感に襲われ、ルーカスは思わず掌で瞼を覆った。
 彼女は母に似ていない。その外見も内面も。なのにどうして今、彼女の姿が母と被る。

 ――思い出した。あの日、母の口から聞いた言葉を。

「お誕生日おめでとう。ルーカス」





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