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暁の彼方〜外伝 暁に咲く花〜




 その日を境に、グレイはカシスタに会うことをやめた。出勤時間をずらして正午の鐘が鳴る前には退出し、昼の休憩時間が終わって侍女達が仕事につきはじめたころに職場に戻る。言付けも手紙もすべて無視して切り捨てた。さすがにグレイの意思に気がついたのだろう、短い夏も終盤を迎えるころには、昼の訪れを告げる鐘が鳴っても、あの人懐こい笑顔を見ることはなくなっていた。



 雨が降っていた。まだ夏が去って行くには早すぎるはずなのに、凍えるように冷たい雨だ。霧のように細かい雨粒が、容赦なく体温を奪って行く。
 その日、夜勤の勤務に当たっていたグレイは、勤務が明けた早朝、傘も差さずに雨に打たれながら、王都に戻って以来のねぐらである異母姉の館に帰りついていた。館の敷地内にある、かつて庭番をしていた夫婦が住んでいた小屋を一軒まるごと借りて、ずっとそこで寝泊りしている。とはいえ食事は大抵外で取ってくるので、いくらかの本と愛用の剣、寝台とごくわずかの身の回りの品だけがある、実に質素な住処だ。かつての住居であった近衛騎士隊長の自室はもちろん、クレスタ家の邸とも比べるまでもないのだが、もともとは王都の下町で半ば浮浪児のような生活をしていたことを思えば、充分すぎるほどの環境と言えた。
 その充分過ぎるほどの住処に、充分以上の――余分な何かを見つけ、小屋の手前の庭の小道で、グレイは思わず立ち止まってしまった。降りしきる雨の感触は、しとしとというよりもわもわに近い。雨粒というより煙のような雨だ。だから見間違えたのかと思った。だとしたら随分と――、趣味の悪い幻覚だ。
 煙るような雨を透かして、立ち竦んだ男の姿が見えたのだろう。小屋の入り口の軒下、かろうじて雨を凌げるほどの狭い空間で、膝を抱えてうずくまっていた少女は、雨とも涙ともつかぬもので濡れた頭を押し上げる。いつからそうしてここにいたのだろう。全身がしっとりと濡れそぼり、唇が青紫に変色していた。
「――何で、来た」
「歩兵隊の方に聞きました。宿舎ではなく、こちらにいらっしゃるって」
「そうではなくて」
 苛立ちがそのまま顔に出た。怯(おび)えたような眼差しで、それでも怯(ひる)むことなく、カシスタはグレイを見る。
「父から便りが来たんです。……縁談があるから帰ってくるようにと」
 まるで訃報でも告げるかのごとく陰鬱な顔でいうので、笑ってしまうこともできなかった。無性に煙草が欲しい気分で上着の内側を探って、生憎切らしていたことに、グレイは内心で舌打ちする。
「そりゃ、おめでとう。良かったな。君には王宮勤めは合っていなかったんだから、早く帰って父上が決めた相手と祝言を挙げるといいい」
「――挙げたくありません」
 そういった頬に熱いものが滴った。涙の雫だ。思わず無遠慮にも手を伸ばしてそれに触れてしまいそうになり、寸前のところで差し出しかけた拳を押しとどめる。炎もないのに、掌が焼けるように熱い。
「どうしてだ?会ってみて、どうしても好きになれないような相手だったら逃げるんだろ?そう言ってたじゃないか」
「――好きです」
「……」
「あなたのことが好きです。だから縁談のお相手を好きになることなんてできないし、このままの気持ちじゃ、逃げることだってできません」
 がたんと何かが崩れる音を聞いた気がした。それは多分、先程掌を焼いた熱が、全身を駆け巡った音だった。気づいた時には細い肩を両手で掴んで壁に押し当て、血の気を失くした唇に吸い付いていた。それも膝で膝を割って足を絡ませ、驚きに開かれた口の奥に舌を侵入させながら、だ。
 はじめて触れた少女の唇は、今までに触れてきたどんな女のものより、冷えて、凍えて、柔らかかった。無理やり奪って飲み干した唾液の甘さも、これ以上とないくらいに密着した身体の丸みも、裾を割って絡み合わせた太腿の肉づきも、もう充分以上にに女のものだ。
 未だ全身を駆け巡る熱から目を逸らし、彼女の身体は壁に押し当てたまま、唇だけを押し離す。うっすら開いた唇から、滴る透明な糸が目に痛い。
「……確かに俺は君よりずっと年上だが、これでもまだ現役で男なんでね。女に惚れれば、こういうことがしたくなる。迂闊なことは言わない方がいい。――君、そこまでの覚悟ないだろ?」
 グレイの拘束に捕らわれたまま、カシスタはずるずるとその場に座り込んだ。よほど衝撃だったのだろう。驚きのあまり泣くこともできないでいる。
「わかったら、さっさと帰って熱い風呂にでも入れ。風邪をひいても知らないぞ」
「……それって、……ことですか?」
「え?」
 荒い呼吸の合間にかすれた声を聞き、思わず訝しげな声が出る。今はもう、突き放せば振り払えるほどの力しかこめていないのに、逃げ出さない目の前の少女が何を考えているのか、想像もつかない。
 恐ろしくないわけではないだろう。男の怖さ恐ろしさも、男女が想い合うということの真の意味も、芯からは理解していなかったに違いない。全身が寒さとは違う震えで小刻みに揺れている。思わず哀れに思って抱き締めてやりたくなり、慌てて頭を振って、その想像を押しはらう。本末転倒も甚だしい。彼女を怯えさせて嫌われたかったのに、ここで情に流されてどうする。
「……気がついて、ました」
「――何を」
「グレイ様が、どうしてわたくしと一緒にいて下さったのか」
「……」
「わたくしが無知で愚かで世間知らずだから、だからグレイ様は仕方なく、一緒にいて下さっていたということも」
「……」
「わたくしを見ながら、誰か別の方のことを見ていらっしゃったということも」
 そのことに気づかれていたのは衝撃だった。思わず言葉を失ったグレイの視界に、泣き濡れた大きな瞳が飛び込んでくる。
「……それでもよかった。もしかしたらこのまま時間がたったなら、いつかは、わたくしだけを見てくださるんじゃないかと思ったんです。……すべて、わたくしの勘違いでしたか?そんなことは、絶対に、ありえませんか?」
 彼女にかつての想い人の姿を見ていた。――そう、はじめは確かにそうだったのだ。
 だけどあの女(ひと)は、こんな風に、真っ直ぐに人を見据えたりはしなかった。自分の思いを、自分の言葉で語ろうとはしなかった。
 揺るぎない意思を瞳にこめて、誰かに答を求めたりはしなかった。。
「――お願いです。答えて下さい。そうでなければ、前に進めない……」
 揺るぐな、弛むな、誤魔化すな。それはグレイが久しく忘れていた衝迫だった。自分の思いを、自分の言葉で語ってこなかったのはグレイも同じだ。真っ直ぐに相手に向き合うことも、無理やりもぎ取って奪い去ることもせず、ちまちまと策を弄して、あげく、すべてを失った。
 気づけば眩しいものを見つけた思いで、叩きつければ壊れてしまいそうな細い身体を見つめ続けていた。今目の前にいるのは、泣き濡れ、怯えて庇護を求める子供ではなかった。守ってやっているつもりでいた自分が馬鹿らしい。彼女は誰かに守られずとて、自分自身くらいは自分で守れる。――救われていたのは、こちらの方だ。
 握り締めた拳を彼女の頭上の壁に突き立てる。びくり、と震えた細い全身が逃げられるくらいの隙間は開けて、けれど、まるで真摯な祈りでもささげるかのごとく、力を込めて。
「……覚悟、あるのか」
「……?」
「元反逆者の大罪人と共にいれば、いずれ、君にも同じ咎が振りかかる。それを受け入れる覚悟はあるのか、と聞いている」
 グレイの言葉の意味をかみしめるかのようにしばらく瞳を閉じた後、カシスタはゆるりと微笑んだ。躊躇も惑いもない、心の底から純粋な笑みだ。
「――あります」
「……君な、こういう重大事については、もう少し悩んでから答を――」
 本当に、この手を取ってしまっていいのだろうか。この期に及んで――相手に覚悟を問いながら自分は覚悟を定められない男の手に、凍えた掌が重なった。子供のように拙い抱擁に、背中にまわされた細い腕が切ない。
「グレイ様がわたくしを見てくださるのなら……、どんな覚悟でもしてみせます」
 その言葉が、婉曲に、最初の問いかけに対する返答にもなっていることを悟り、グレイは今度こそ本当に失笑せずにいられなかった。まったくもって敵(かな)わない。こんな女の手に落ちてみろ、きっと一生、敵わないままで終わる。だったらそれでいいではないかと思ってしまう己の思考に、グレイはようやく自分自身の覚悟を決めた。
 一生を一人の女に敵わないままで居続ける。
 ――それは、とてつもなく幸せなことかもしれない、と。


 グレイ・クレスタ。グリジア王国近衛騎士。近衛隊長を六年務めた後、歩兵隊副隊長を五年、後にグリジア王国軍総指揮官として、主に西方戦線の指揮にあたる。
 アグネイヤ1世6年秋、ユークラテス河岸で起こった月英軍との戦いにおいて戦没。
 南方の中流貴族出身の妻女との間に一女。





暁の彼方外伝 暁に咲く花 完結

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