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暁の彼方〜外伝 暁に咲く花〜




 こんな時間が、長く続くことがないことはわかりきっていた。今はまだ、彼女はかつてグレイが友を裏切り、忠誠を誓った王に叛いた反逆者であることを知らない。知ってしまえば彼女もまた、顔をゆがめて罵りながら、彼の側から立ち去って行くのかもしれない。そしてそんなことより何よりも、もうこれ以上、過去を負った男と無垢で純粋な少女を長く係わらせておくわけにはいかなかった。それこそが、彼女より大分長く生きている人間としての義務であり務めだ。
 終わらせるのは、こちらから。きっかけは思いの他早く訪れた。それも、思いもしなかった形で。



「――副隊長、これ以上待たせるのは気の毒ですぜ。これは俺が代わります」
 既に正午の鐘が鳴ってから、かなりの時間が経過していた。書類処理が思った以上にはかどらず、昼食に立つことが出来ないグレイの手から、古参の兵士が書類を取り上げる。彼の視線の先には歩兵隊の詰所の入り口付近にちょこんと腰かけ、にこにこ笑いながら弁当の包みを抱えたカシスタがいる。グレイの仕事が長引いて、昼に休憩に入れない時には、彼女はこうして、詰所の前で待っているようになっていた。他の兵士達に笑顔を振りまき、時には世間話に花を咲かせたりしている。
 そして――これは予想もしていなかった事態なのだが――、彼女を潤滑油(じゅんかつゆ)の代わりにして、グレイの存在は第七歩兵隊の中に馴染み始めたようだった。危惧(きぐ)していたように、嫁入り前の身で男の許に出入りしているふしだらな娘だと、悪評が立つ気配もなかったし、いい年をして若い娘に入れあげている情けない男だと、グレイ自身が蔑まれる気配ない。それどころか、こんな可愛い娘に好かれている男が悪い人間のはずがないと、何故かグレイの株が上がったりするのだから、世の中、何が幸いするのかわからない。
 書類を部下に預けて立ち上がったグレイを見て、カシスタは満面の笑みで手を振った。詰所に残って弁当をかきこんできた若い兵士が、羨ましそうな目を向ける。少々、いや、かなり気恥ずかしいのだが、正直、そう悪い気分でもない。
「待たせたな。腹減っただろう。早く行こう」
「――はい!」
 こんな時間が、長く続くことがないことはわかりきっている。けれどできることならば、もう少しだけ。あのもうほんの少しだけ、続いていてほしい。
 ――儚い願いはかなわない。いつの日も。どんな時だって。
 


 最近のカシスタの気に入りは、歩兵隊の詰所からそう遠くないところにある丘の上だった。もともと第七歩兵隊の詰所自体がかなり辺境の地にあって、だからその周囲には何もない野っぱらが多い。石畳の床や作られた庭の眺望より、何も手を加えられていない自然のままの光景が彼女のお気に召したらしく、草の上に直接敷布を広げて、その上に弁当の包みを並べて行く。今ではそれなりに友人もできて、いじめられて泣くことも少なくなってきたようだが、カシスタは頑なに、グレイと昼食を取る習慣だけは改めようとしなかった。
「今日、厨房に氷の塊が届いたんです。わたくし、あんなに大きな氷を見たのははじめてで、びっくりしました」
 いつしか季節は移りかわり、焼きたてのパンより冷えた果実が、暖かいスープより氷を浸かった氷菓が好まれる季節が訪れようとしている。頭上に広がる樹木の緑も夏の色だ。グリジアの夏は短いが、その分、人も自然も目いっぱいに、陽光の恵みを受けて解放的になる季節でもある。
「この季節に届くってことは、グラーデン地方の氷室(ひむろ)からだろう。あそこは昔から、王族ご用達の巨大な氷室があるんだ。山が険しくて夏でも気温が上がらないから、それを利用して暗室で凍らせてるらしい」
「へえ、そうなんですか。その氷を削って蜜をかけて、明日は氷菓を王女様に献上するって聞きました。わたくし達にもあまりものが振舞われるそうなんで、楽しみです」
 取り留めのない会話を交わしながら、カシスタが作ってきた弁当の中身を二人で食する。先に食べ終わって口を拭ったグレイに、カシスタは筒に入った茶を勧めた。完全に、娘に給仕される父親の気分である。
 素直にそれを受け取った瞬間、ざくりと背後で草が割れた。咄嗟、傍らの少女を守ろうと腕を伸ばしかけた男の視界に、剣を帯びた幾人かの兵士が映る。
「――第七歩兵隊副隊長、グレイ・クレスタだな」
 高圧的な態度と、誇らしげにかざされた剣に刻まれた王家の紋。
 他でもない、十年前までグレイ自身が身につけていた、近衛騎士の証だった。
「……ああ。それがどうした」
「お前に聞く。昨日の午後、ちょうど今と同じ時刻、どこで何をしていた」
「……昨日?」
 一昨日も昨日も、この時刻には同じ相手と同じ場所にいた。だがそれをそのまま口に出すことが憚られ、グレイはあえて、惚けた面を取り繕った。
「昨日、何が起こったんです?近衛隊の騎士様が、たかだか歩兵隊の副隊長に何の御用なんですかね?」
「昨日の今時分、宰相閣下が、何者かに襲われた」
「――ルーカスが?」
 思わず眉間に皺が寄る。取りあえず平和が保たれているとはいえ、内外を問わず、黒宰相を除こうとする人間の数は決して少なくない。いつか見た、自邸で子供達を戯れる姿が思い起こされた。いくら王宮内とはいえ、本来なら護衛もつけずにあんな無防備に、他人に姿をさらしていい男ではない。
「おい、それであいつは無事なのかよ」
「宰相閣下はご無事だ。……奥方様がご一緒だったからな」
 宰相の妻はかつての戦闘者のギルドの女戦士であり、確かに並の護衛より腕はたつ。だが彼女は現在妊娠中のはずで、それはかえってたちが悪かろうとますます眉をしかめたグレイに向かい、近衛騎士は高圧的な態度ながら多少、訝しげ顔をした。
「先に言っておくが、奥方様も、お腹の御子にも大事ない。もう一度聞く。お前はその時刻どこで何を――」
「――グレイ様はずっと、わたくしと一緒におりました!」
 傍らからあがった高い声は、無論、彼と昼食を共にしていた少女のものだ。大きな瞳を目いっぱいに見開き、精一杯に背筋を伸ばして姿勢を正して、少女は一生懸命に、自分よりもずっと年上の男を守ろうとしていた。
「昨日も一昨日もその前もずっとです!」
「……おい、君は黙っていろ」
「何なのですか、あなた方は?失礼じゃあありませんか。突然現れて名乗りもせず、尋問ですか?大体、どうしてグレイ様が宰相閣下に危害を加えならなければならないのです?!」
 ようやくその存在に気づいた、という顔で、騎士がカシスタを見た。わずかに目を見開き、珍しいものでも見たかのように、グレイと少女の顔を見比べる。その後に紡がれるであろう言葉が容易に想像でき、グレイは思わず、彼女の耳を両手で塞いでしまいたくなった。
「失礼がありましたら謝りますよ、お嬢さん。ただ宰相閣下に何かあれば、まず疑われるのはこの男だ。何しろ彼は――」
「忠誠の誓いを裏切り、王家に叛いた謀反者の元近衛騎士隊長だからな」
 継いだ言葉は他でもない、グレイ自身のもの。男の前に立ちはだかって、両手を広げんばかりの勢いでいた少女の動きが停止する。のろのろとした仕草でこちらを振り返ってきた小さな頭に笑いかけたつもりで、うまく笑えている自信は、正直、今のグレイにはまるでなかった。
「そんな……嘘」
「当の本人が言っているんだ。これで君もわかったろう。よく知らない人間を迂闊に信用すると、こういう目にあう。これに懲りたら、今度からは付き合う相手は相手はよくよく選ぶんだな」
 かつて自らが行った行動は重々自覚しているし、今さら、弁解する気も許しを請う気もない。いやそもそも、詰めが甘かったと悔やんだことはあっても、行為そのものを後悔したことはなかったはずなのに、今はただ、いつも真っ直ぐにこちらに向かってくる視線に宿った衝撃の色だけが、無性に胸に痛かった。





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