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暁の彼方〜外伝 暁に咲く花〜




 王都に戻ってきてから一度だけ、かつての親友の姿を垣間見たことがある。上司に遣いを頼まれた帰り道、たまたま宰相官邸の近くを通りかかった時のことだった。
 まだ日の高い、こんな時間に自邸にいるはずもない。そう思って見やった庭先から、乾いた男の笑い声が響いた時には驚いた。ぱたぱたとかけて来た五歳くらいの男の子を相手に、皮を張り合わせてできた球を投げ合っている。その傍らにはもう一人、七歳くらいの女の子がいて、弟が受け止め損ねた球を拾ってはしきりに放り投げていた。
 ――現在のこの国の、実質上の王。
 賢君や名君と言った言葉は適切ではないだろう。結構破天荒なことをもやっているし、戦や内乱に陥る危機も何度かあった。その度に危険を上手く掻い潜って舵を取り、綱渡りよりの綱よりなお細い紐帯(ちゅうたい)の上を渡りきった。彼の妻――かつての王宮舞姫は実質上の国王妃として、孤児院の建立や学校教育の普及に功績があり、秋には三人目の子供が生まれるという。
 こちらに背を向けている為に顔は見えなかったが、きっと、幸せなのだろう。少なくとも、今はもう、あんな深い淵を覗くような目をしてはいまい。十年前より逞しさをました背中と、止むことのない子供達の笑い声が、彼(か)の男が得た言葉にできないほどの幸福を物語っているように思い――同時に、その男と自分との間に開いた、決して埋めることのできない深い溝を、まざまざと見せ付けられたような気がした。



「今日のは蒸し焼きなんです。厨房で珍しい香辛料を分けてもらって」
 グランディア家は南方にある中流貴族で、取り立てて上流ではないが、決して低いと蔑まれる家柄でもない。王宮に行儀見習いに来る貴族の子女の家柄としては、まずまず中の上程度だろう。それでも彼女が仲間の侍女と馴染めない理由は、他でもない当の本人にあった。
 よくいえば純情。悪く言えば、世間知らず。今年の春に王宮に上がったばかりで、それまでは父親の領地である南方の土地から一歩も出たことがなかったというのだから無理もないのかもしれないが、それでも普通は十九にもなれば、もう少し世の中を――常識を知っていてもいいと思う。
 嬉々として料理についての講釈を垂れる少女を横目に、グレイは半ば呆れ顔で、木の串に突き刺した鶏の団子をほおばった。確かに旨(うま)い。脂身を取ってあるのであっさりとした中に、ほのかに香辛料の酸味と辛味がきいていて、多分、酒のつまみにかなり合う。だが今、問題とすべきはそんな事柄ではない。
「……あの、お口に合いませんでしたか?」
「いや、旨いよ。かなり旨い。けどな、俺が言いたいのは、そういうことじゃなくて――」
 グレイがこの少女――カシスタ・グランディアに出会って、すでに一週間近くが経過していた。その間、ほぼ毎日のように少女は昼前にグレイの仕事場に現れ、そして必ずといっていいほど、昼食を共にする日々が続いていた。それも彼女が手ずから作ってきた――いわゆる「手料理」をだ。
 これで噂にならないはずもない。既にグレイが所属する歩兵隊の中では、二人が交際している、を通り越して彼女は副隊長の許婚(いいなずけ)であるとか、実はもう密かに神前で誓いを交わした夫婦である、というところにまで行き着いていた。男のこちらはとにかく、彼女にとって決して喜ばしい事態ではない。
 だから顔を合わせるたび、こうして毎日のように、夫でも恋人でもない男と食事を取るのはいかがなものかと問いかけてはみるのだが、当の彼女はまったくめげない。何でも故郷にいる時から料理が得意で、父親の弁当は必ず自らの手で作っていたという。いや、だから俺は君の父親ではないんだ、と声を大にして言いたいのだが、故郷から遠く離れて気の合う仲間もできず、休憩時間に共に食事をする相手もいない、そんな生活を送っているのだと思えば、他でもない自分自身が同じ立場であるだけに、あまり強く拒むこともはばかられた。
「――でも、もしかしたら、しばらく来られないかもしれないんです」
 しゅん、と珍しくうな垂れた様子に胸の奥が痛んだ。普段はこちらの胸まで明るくするような笑顔を絶やさない性質だけに、なおさらだ。
「……どうした?何かあったのか?」
「王妃様のお加減がよろしくなくて。多分、今年の夏は迎えられないんじゃないかって、お医者様が……」
 王妃レノラは十年前、王女を出産した後に精神に変調を兆し、人前に姿を現さない生活が続いていた。もともと精神も身体も決して頑健ではなかった女だ。こうなることは目に見えていたともいえる。
「お加減がよろしくないのはもうずっとのことなんで、仕方ないんです。だけど王女様のお見舞いさえ受け付けられないのは、どうしてなんでしょうか。この前なんて……」
 見舞いに訪れた娘の顔を見て半狂乱になり、病室の花瓶を投げつけたという。
 今年で十一歳になる王女の顔には、かなり大きな痣がある。かつてまだ赤子だったころ、王妃がその額に焼けた火掻き棒を押し当てた痕だ。
 もうすぐ年頃になろうという娘の顔に自分がつけた終生消えぬ傷痕を見つけてしまえば、半狂乱にもなるだろう。罪悪感にさいなまれもするだろう。だが彼女が娘を愛せない本当の理由が他にあることを、グレイは実によく知っている。
「――彼女には、王の他に好いた男がいたんだ」
「え?」
「けれど国王……いや、皇太孫の求婚は断れない。そんなことをすれば自分の立場も父親の立場も酷く悪くなることは目に見えているからだ。けれど男を諦めきれないし、皇太孫を愛することもできない。そんな時――」
「グレイ様?」
「君だったら、どうする?」
 言ってしばらく間をおいて、それからじっと、零れ落ちそうなくらいに大きな鳶色の瞳を見つめてみる。
 かつてまだ、前途に道が開けていた頃。整い過ぎない程度に整った容貌と近衛隊長という最高級の地位が、王宮の女達の心を揺すったらしく、それを利用してかなり遊んだ。地位を失い、三十を過ぎて頭髪に白いものが混じり始めた今となっても、容貌自体はさほど衰えていないし、女心を掌握する術はなくしていない。
 もっとも、そんな習い覚えた習性を、この少女相手に使うつもりはさらさらなかった。ただ無性に聞いてみたくなったのだ。王宮に出仕したばかりで世間知らず、どこか――どうしても、かつての彼女を思い起こさせるこの娘が、彼の問いかけにどんな返答をよこすのかと。
「――逃げます」
 即答といっていい応えに思考が固まった。は、と開いたまま閉じることを忘れた口の中に、初春の風が吹き込んでくる。
「家の都合や他の理由で、好きでもない人に嫁がなければならないことは、あると思います。だけどわたくしだったら、相手の方を好きになる努力くらいはしてみますわ。だけどどうしても好きになれない方だったら、そんな方と一緒に暮らすのは相手の方にも失礼ですもの。逃げ出して、料理女でもお針子でも何でもします」
 予想もしていなかった返答に、ついまじまじと、大真面目にそういった少女の顔を見続けてしまった。次いでこみ上げてきたのは、弾けるような笑いの発作だ。嘲笑でも哄笑(こうしょう)でもない、ただただ純粋な笑いは、十年以上の歳月をかけて固く強張っていた何かを、柔らかく解き放つ効能を持っていた。
「そうか……、なるほどな」
「あ、あの……グレイ様?」
「そうだよな。――そうしたって、よかったんだ」
 ――そうか、逃げるか。
 お針子でも料理女でも何でもするか。
 王妃レノラは夫を愛していなかった。愛せなかったこと自体は彼女の罪ではない。けれど自分を愛していない女と、そうと承知で暮らし続けなければならなかった日々が、シリウス3世を――シリウス・グリジアという男を、追い詰める一因となりはしなかったか。
 誰でもいい。どんな言葉でもいい。あの頃たった一言、彼女にそう言ってやる人間がいたならば、未来はもっと、変わったものになっていたのかもしれなかったのに。


 グリジア王国暦シリウス3世16年春。
 グリジア国王妃レノラ・グリジア崩御。享年三十四歳。
 地方の田舎領主の娘として生まれ、一国の国王妃にまで上り詰めたその半生は、しかし、決して幸せなものではなかった。
 そして――。
 王宮の中心部とも、国王とも王妃とも遠いところでその訃報を耳にしたグレイは、その報せが、かつてほどには、自分の胸を抉らなかったことに気がついていた。





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