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暁の彼方〜外伝 暁に咲く花〜




 十年ぶりに戻ってきた王宮の風景は、記憶の中にあるそれと、さほど変わっていないように思われた。なじみの建物のいくつかが取り壊され、見覚えのない建造物にとってかわり、かつての知り合いの顔が十年分年を取って――もっとも彼の方だって、同じだけ齢を喰らってはいるのだけれど――そしてその顔見知りのすべてが、顔を合わせるたびに何とも気まずそうな顔をして、向こうからそそくさと立ち去って行くことを除いては。
 何の因果か人事の悪戯か、はたまた他によほどなり手がなかったのか、グリジア王国第七歩兵隊の副隊長として王都に呼び戻されてからというもの、グレイ・クレスタは非番の日には、王宮の敷地内をただぶらぶらとうろつきまわって過ごしていた。休日に共に街に繰り出す仲間も、剣術場で腕を競いあう相手もなければ、そうでもしていなければ時間のつぶしようがない。
 今年の冬は暖冬で、雪解けも春の訪れも各段にはやかったから、こうして歩いていても、寒くはないことだけが唯一の幸いだった。春特有の分厚い雲が途切れ途切れに上空に浮かび、その狭間に覗く空は澄んだ水の色をしている。枝を彩る若芽の色は、緑というより青に近い。あと数週間もたてば、蕾の花々が一斉に花開き、グリジア王国にもっとも美しい季節がやってくるはずだ。
 とはいえ三十路を過ぎて妻子も、共に季節を愛でる相手もなく、将来の展望も未来への願望もない男にとっては、朝の訪れも、華やかな季節の到来も、心躍るものではない。また終わることなく一つ季節が巡った。ただ味気なく、かみ締めるだけの月日が、延々と続いていく。それだけのことだ。
 ――そんな、ある初春の日のことだった。



「――あらまあ、折角の刺繍をこんなになさってしまって、どうなさるおつもり?」
「いくらご自分のお手に自信がないからって、エミリア様の刺繍まで台無しになさるなんて、なんて方かしら」
「これだからわたくし、南方の方とご一緒するのは嫌だったんですの。オルビス夫人に何と言って謝罪すればいいのやら」
 並々と水を湛えた噴水の前に、華やかなドレスを身に纏った少女が数人立っている。よく見ると彼女らの視線の先では、色鮮やかな布の切れ端が何枚も何枚も水中に浮いていた。足許には籐を編んでできた籠。手が滑ったかつまずいたかしたのか、恐らく布の入った籠を水中にぶちまけてしまったらしい。
 王宮に大勢いる侍女や下女――住人ではなく、労働力を提供している女性達は、おおまかに分けて二つの類に分類される。一つは王族や貴族に賃金をもって雇われているもの。そしてもう一つは賃金を度外視して、行儀見習いの名目で地方から王宮へ送られてくる少女達で、彼女らは数年もすれば実家に帰って相応の相手と縁付く。あるいは王宮勤めの最中に若い官吏や貴族と恋仲になる者もあり、それを狙って、伝手やコネや賄賂を使って、娘を王宮に送り込んでくる父親もあると聞く。
 今、グレイの目の前にいる彼女達も、そういった田舎貴族の子女だろう。少女達はまだ、行き当たったグレイの存在に気がついてはいない。睨むような眼差しはすべて、たった一人の少女に向けられている。
 他の少女に取り囲まれているのは、豊かな亜麻色の巻き毛を肩の下で二つに結んだ、十八、九の少女だった。目鼻立ちの整った、十分に美少女といっていい顔立ちだが、いかにも気の強そうな顎の線と、揺るぎのない大きな鳶色の瞳が、細く儚げな全身の印象を裏切っている。
 恐らく、同僚の侍女たちの中で新入りの――そして疑うまでもなく、父親の地位があまり高くないのだろう。だから些細なことで同僚の侍女にいびられ、責められる。本人にはまったく咎のないことで。
 ――あの女(ひと)もそうだった。見覚えのある光景に、知らず、心か過去に引き戻される。南方の田舎領主の娘が皇太孫つきの侍女に選ばれたことが周囲の妬みを生み、いつも廊下の片隅でうずくまって泣いていた。
「確かに籠を手放したのはわたくしです。けれどその前に、わたくしにぶつかってきたのは……」
「まあ、言い訳なさるおつもり?わたくし、ただ足を滑らせただけですのに。あなたが籠を落としたのも、こんなことになったのも、すべてわたくしの所為だとでも?」
 この辺りで泣き出して許しを請えば、彼女たちとて溜飲を下げ、布を拾い集めるための助けの手を――多分、王宮勤めの衛兵辺りを呼びに言ったことだろう。だが少女はここでき、と眼差しをあげ、きっぱりとした口調でこう言った。
「――いいえ。責任を持ってこの衣はわたくしすべて拾い集めます。夫人への謝罪もわたくしが行います。どなたの手もお借りしませんわ」
 他の人間が止める間もあればこそ。柔らかなドレスの裾を膝の上までたくしあげた白い素足が、噴水の生垣をやすやすと乗り越えた。豊かな亜麻色の巻き毛が消えてゆく。春を迎えたとはいえ、まだまだ凍てつくほどに冷たい、グリジア王国の水の中へ。
 意外と軽やかな身のこなしで、これがただの泉や水場なら、案外呆気なく目的を達したかもしれない。だが生憎この場所は……。
 ――おい、馬鹿、わかってんのかよ!
 覗き見という、あまり誉められない行動を行っていたグレイの心中など知るよしもない。その瞬間、かちり、と歯車が切り替わり、噴水から飛沫が吹き上がった。そしてそれとは違う場所で、ばしゃんという激しく水が鳴る。全身にこれ以上とないくらい冷たい水を浴びた娘の細い身体が、水中へと消えて行った音だった。



「――副隊長、副隊長お客様ですぜ」
 いささか下品な笑みを浮かべた年上の部下にそう呼ばれたのは、<副隊長>という呼び名にも大分なれてきた、ある昼時のことだった。
 王宮の敷地の片隅も片隅、いっそ辺境と呼んだ方がいいくらいの片隅にある歩兵隊の詰所で、書類仕事に精を出していたグレイは、怪訝な顔でこうべを上げる。
 春の人事異動でこの部署にやってきたグレイは、もとから所属していた兵士達に、あまりよい印象をもたれていない。というより、元近衛騎士隊長という肩書きと、十年前とある事件をきっかけに左遷されたという事実によって、露骨に倦厭(けんえん)されていると言ってもよかった。……無理もないことだ。もしもグレイが彼らの立場だとしても、やはりあまり近づきにはならず、遠巻きに眺めている以外なかっただろう。
「……可愛らしい、女のお客様ですぜ」
 女の客。その言葉に心ひそかに首を傾げる。心当たりがあるとすれば異母姉のテリーゼ一人だが、どう考えても「可愛らしい」という単語で表せるような女性ではない。まるで思い当たるふしのないグレイが首を傾けながら、詰所の入り口から顔を出した瞬間、疑問の相手は小動物じみた仕草で、思い切り身体を折り曲げて見せた。
「先日はありがとうございました!」
「君は確か……」
「カシスタ・グランディエと申します。これ、あの時お借りした上着です」
 冷たい水の中で足が吊り、おぼれかけていた少女を噴水から引っ張り上げ、上着を貸して、居室のある建物まで送っていったのは数日前のことだった。全身濡れ鼠よりさらに酷い状態であった彼女にしてみれば、自分を助けた男が何処の誰かさえわかっていなかっただろうと思っていたのだが、ここを探し当てててきたところを見ると、意外と周囲の状況が目に入っていたらしい。もっとも、助けようと思えばもっとはやくに助けてやれたのに、いびられている彼女を黙って見ていたのだから、グレイも決して誉められる行動をとったわけではないのだが。
「……いや、特に礼を言われることをしたわけじゃねぇし」
 恐らく洗濯した上に、日向に干してブラシをかけでもしたのだろう。思わず受け取ってしまった自分の上着は、ふんわりと温もりを帯びている。
「あ、あの先程の方に、これからお昼休みだとうかがいました。お食事はまだですか?」
「え?あ、ああ……」
 よかった、と満面の笑み。最近、こんな風に誰かに笑顔を向けられたことがない所為で、何故か酷く気圧されてしまう。
「――厨房でお弁当作ってきました。どうか、お礼をさせて下さい!」
 妻子も、共に季節を愛でる相手もなく、将来の展望も未来への願望もない。だがグレイは一瞬、知り合ったばかりの少女の笑顔の向こうに、一筋、何か光るものを見たような気がした。





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