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永遠より長く


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 5
 信直と熊谷の手勢に抱えられて高松城に戻った元春の容態は、思わしくなかった。熊谷懇意の医者を呼び、信直と高直、元就の三人がかりで押さえつけて傷口を縫い合わせはしたものの、後は本人の気力と体力がどこまで持つかにかけるしかない。
 対外的には、毛利の次男が熊谷の城に滞在していることは、あまり表ざたにしたくない。沙紀は元春の病床に侍ることを許され、ほとんどつききりで看病した。褥にうつ伏せに寝かされた若者の顔には血の気がなく、それでいて額に触れると、火を噴くかと思うほど熱い。引き締まった唇から零れるのは意味を持たない呻き声だけで、あの快活な声音が聞かれないことが、他の何より悲しかった。
 意外だったのは、元春の父親である元就がほとんど熊谷の城に居ついてしまったことで、さすがに一度は毛利の本拠である郡山に帰ったものの、その後はずっと三入荘に滞在している。元春がこのような目にあったのも、もとを正せば元就が吉川の家督に手を伸ばした所為で、この時代、息子や娘を政略の道具としか考えていない父親は大勢いる。元就もそんな父親の一人なのかと思ったが、彼は彼なりに心が痛んでいるのかもしれない。
 その日、洗って乾かした晒を抱え、いつものように元春の病床を訪れた沙紀は、わが子の枕元に陣取り、その顔を見つめる壮年の男の姿を見つけて歩みを止めた。沙紀はまだ毛利の嫁ではないし、元就と元春の父子の間にどのような葛藤や繋がりがあるのかわからない。だが今、父である男の眼差しに宿った剥き出しの悲痛は、純粋に胸に痛かった。
「すまない。次郎……」
 元春が意識を取り戻したのは、それから間もなくのことだった。



 その報せを聞いた時、沙紀は侍女たちと一緒に、城内の井戸端で洗濯をしていた。洗い桶の中身は、怪我人の看護に使った手ぬぐいや晒だ。数ヶ月前より、朝夕は格段と過ごしやすくなった。日中はまだまだうだるような暑さが続くが、空気が乾いている分、洗い物は非常によく乾く。
 物干し作業は侍女達に任せ、ほとんど駆けるようにして元春の部屋へと急ぐ。沙紀がたどり着くと、元春は熊谷の家臣の介添えを受け、湯冷ましを呑んでいた。少し痩せ、頬のあたりが随分とこけたが、顔色は悪くない。
「ああ、沙紀殿。妙なことに巻き込んで済まなかったな。怪我はないか」
 少しかすれた、だが本質はいつもと変わらぬ快活な声を聞いた途端、全身の力が抜け、沙紀はその場に座り込んでしまった。元春が意識をなくしていた数日間、自分がどれだけ気を張り詰めていたかを知る。――本当に、良かった。
「お、おい、沙紀殿……?!どこか痛むのか?」
 慌てた風の元春の傍から、家臣たちが立ち上がった。どうやら、気を利かせたつもりらしい。次々と目配せを交わしながら立ち去って行く。
「わたしは何ともありません。一番の重症は貴方様です。――元春様」
「ああ、そうらしいな。何だか色々な花が咲き乱れた場所に川が流れていてな。向こう岸に死んだお袋の顔が見えたんで、さすがの俺も、これはまずいかと思った」
 冗談にしても不穏な台詞に、思わず、顔が歪む。歪めた頬に男の指先があたった。目の縁を拭われてはじめて、そこに涙の雫が浮いていることに気がつく。
「千鶴と太助が寂しがっておりました。最近、次郎殿にお会いしていないと……」
 以前、元春に命を救われたことのある子供達だ。それ以来すっかり彼に懐いてしまい、次郎殿、次郎殿、と、三入荘にやってきた元春の後ろをいつもついてまわっていた。
 元春が傷を負って高松城に匿われていることを知ったなら、きっとすぐに見舞いにやってくることだろう。子供達の明るい笑顔を思い出したのか、若者の唇にも笑みが浮かんだ。
「……そういえば、兎を捕える罠の仕掛け方を、教えてやる約束をしていたな。あやうく、大嘘つきになるところだったか」
 大きな手が頬を包み、指先が眦や顎を伝う。そこに彼女が存在することを確かめるかのように、元春の指は何度も沙紀の髪や頬を伝った。
「……続きを聞かせてもらっても、よろしいでしょうか?」
「続き?」
「あの時、元春様はおっしゃいました。わたしを……熊谷の姫を妻に欲しいと思ったのは、父に恩を売る為ではないと」
 ならば何故、醜いと評判の姫を娶ろうと考えたのか。その答を聞く前に、吉川の刺客に襲われたのだった。
「熊谷の姫ならば、俺を厭わぬかと思ったからだ」
「……」
「……俺は十五の歳に、吉川の養子になることが決まってな。十六になった時に取りあえず一年間の約束で、吉川の城に行った。いわば、仮養子だな」
 正式な養子となる前に吉川の家風を知り、家中の人間関係を把握する為、一年、客人として滞在する予定であったと元春は言う。だが、客人生活は三月と続かなかった。その三ヶ月の間に三度殺されかけ、五度も毒を盛られたのだから、無理もない。
「これでも俺なりに努力はしたんだ。だが吉川の大半は、道理に反した養子話を押し付けてきた毛利に反感を持っている。……はじめから憎まれていては、会話のしようもない」
 元春が郡山に帰ってからも、元就は吉川の家督を諦めず、元春も吉川の手の者に命を狙われ続けた。元就ははじめ、吉川の反発を抑える為、元春には吉川所縁の姫を娶らせるつもりであったらしい。それは嫌だと元春ははじめて父に逆らった。吉川の家の者の毛利に対する反感がいかほどかは、誰よりも身に染みている。
「そんなことになってみろ。夜眠るにも、寝首をかかれる心配をしなくてはならなくなる。俺は弟が生まれるまでは末っ子で、両親にも兄姉にも甘やかされて育ったからな。周囲の者すべてに死を願われるのは、いくら何でも気が滅入る……」
 吉川の家督は吉川家の者に。そう言って刃を振り下ろした男の顔には、恐ろしいほど感情がなかった。あの男とて吉川の家督を継ぐことが元春の本意ではないことくらい、承知の上だろう。憎悪も害意も、敵意でさえもない。ただ強い信念が人に、それと相反する者を排除することを躊躇わせない。
 さすがに長く喋っていると疲れるのだろう。腕を下ろした元春の手元に湯冷ましの入った湯のみを差し出すと、一気に半分近くが空になった。彼の思いは充分に伝わったし、わだかまっていた疑問の答も得た。男の肩に夜着の端を引き上げようとして、次いで紡がれた言葉に、沙紀は思わず、伸ばしかけた手を引いた。
「だが実際に沙紀殿に会ってみて、迷いが出た」
 ――どうして?会ってみて、わたしの顔が噂どおりに醜かったから?
「あそこは、吉川は、俺にとって伏魔殿みたいなものだから。沙紀殿はとても良い娘だったから、俺の身勝手で伏魔殿に連れて行くのは気が引けた……」
 だからなかなか、正体を明かせなかったのだと。吐き出す息は苦しげだった。
「毛利と吉川の馬鹿げた争いに巻き込んで悪かった。この縁談は俺から親父に断るように言う。……だが、沙紀殿と出会えてよかった。沙紀殿と過ごした時間は、俺にとって本当に久しぶりの楽しい時間だったんだ」
 最後の言葉を聞いた途端、胸の中で凝っていた何かが解けたような気がした。解けた何かが全身を駆け巡り、気がついた時、沙紀は微笑んでいた。
「元春様は、わたしにまつわる噂をご存知でしょう?」
「……噂?」
「熊谷の大姫は天下の醜女。その醜さたるや、鬼も逃げ出す程だ、と」
「沙紀殿?そんなことは――」
「ですから」
「……」
「わたしが一緒に行けば、元春様を狙う吉川の魔物も、きっと逃げ出してしまいます」
 元春はすぐには返事を返さなかった。傷に障らぬよううつ伏せに横たわったままの状態で、何か非常に壊れやすくて大切なものを見るかのように沙紀を見た。元春が次の言葉を見つけるまで、沙紀は微笑んだままでいた。
「沙紀殿」
「……はい」
「俺の妻になってくれるか……」



 客人、それも主君にあたる者の息子が領内で襲われたとなれば、それは招いた側の領主の責任問題ともなりかねない。幸い、毛利元就はそれで熊谷を責めるような器の小さい男ではなかったが、心情的には別ものだ。元春が目を覚ましたと聞いて大急ぎで自城に戻ってきた熊谷信直は、若者の枕元に座る自分の娘の姿を見つけて、歩みを止めた。
 いったん目を開いた後で再び眠りに落ちたらしい。静かな寝息をたてる若者を見つめる娘の顔は、親の贔屓目を抜きにしても、艶めいていて美しい。
 不幸にも自分に似てしまった所為であらぬ噂をたてられ、縁遠くなってしまった娘だった。心の底から幸せを願い、だからこそ縁談にもあれほど喜んだのだが、いざ娘が去ってしまうとなると寂しく思うのは、親の身勝手というものだろうか。
 背後でこほりと咳き込む声がする。振り返ると、元春の父親である元就がどこかきまずそうな表情で佇んでいた。信直同様、息子の病床にやってきたはいいが、入って行くことができなくなっていたらしい。
「熊谷殿」
「……は」
「これは早いところ、祝言の準備をしてやらねばなりませんな」
「さ、さようで」
 何を言われても鸚鵡返ししかできない信直の肩に、元就が手を置いた。重傷を負った息子に背を向けて、三入高松城の長い廊下を歩いて行く。
「これからは親戚だ。よろしく頼む」
 毛利と熊谷が強く結びつくのは喜ばしいし、娘が幸せになりそうなのはもっと嬉しい。――が。寄り添う沙紀と元春の姿を見て、信直は呟いた。
「何だか思っていたより随分と早く、祖父(じいじ)と呼ばれそうな気がする……」



 吉川元春は側室を持たない、戦国の武将としては稀な存在であった。正室である熊谷信直の娘は、元春の三男一女を生み、夫と吉川家の為にその人生を費やした。
 醜女と噂された彼女を元春は生涯、深く愛したと伝えられている。





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