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永遠より長く


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 3
「……えんだん?」
「演壇……?」
「――円段?」
「お前達、ふざけるのもいい加減にしろ」
 その日、久方ぶりに高松城に帰ってきた熊谷信直は、日頃、戦場で張り上げなれているだみ声を張り上げた。傍らに控えた侍女や家臣が途端に身を竦ませたが、張り上げられた家族の方はびくりともしない。いかつい風貌に似合わず、家庭内では子供に甘い父親で、なおかつ日頃から奥方には頭が上がらないとなれば、城主が多少声を荒げたところで、誰も怯えたりはしないのだ。
 熊谷の家は良縁に恵まれる家系らしく、代々、夫婦円満な家庭が多かった。沙紀の祖母にあたる先代城主の妻など、夫が戦死した戦場に自ら赴いて、その腕を切って持ってきたという逸話を持っている。沙紀の父にも側室はいないし、早くに亡くなった叔父の家も夫婦仲は良好だった。だからこそ、叔母が離縁されて戻ってきた時の、父の怒りは尋常ではなかった。熊谷が武田を離れたのは、無論政略的な理由もあったのだろうが、半分以上はそのことが原因ではないかと思われたくらいだ。
「縁談とは……沙紀姫にということでございますか?」
 一番下の姫は幼くて、まだ自分で上手に箸を使うことができない。顔についた飯粒を拭ってやりながら、城主夫人が問う。夫の子を八人も産み、城主の妻として主が留守にしがちな城内を切り盛りしているのだから、父母の縁組は、最高の組み合わせであったに違いない。
 椀に入った白湯を口に運びながら、信直は満足そうに何度も何度も頷いている。信直が帰城した時、家族はそろって夕餉の最中だった。そもそも明日の朝に帰城する予定だった父が馬を飛ばしてまで今日中の帰城に拘ったのは、最愛の家族にこの吉報を伝える為であったらしい。
「しかし父上。沙紀に縁談とは、一体、どちらの家からのもので?」
 上機嫌の父親に、恐る恐る……と言った感じで問うたのは、沙紀のすぐ上の兄である千寿丸――父の跡継ぎである高直だった。この兄はどちらかというと母親似で、千寿と姫の風貌が入れ違っていればよかったと、父や母を随分と嘆かせたらしい。
 城主の娘が十八にもなれば、縁談の一つや二つはあるのが当然で、父母の決めた、家の為に最良と思われる相手に嫁ぐのは、彼女達の義務でもある。信直は娘を政略の駒と思う父親ではなかったし、沙紀の顔が醜いからといって、蔑むことは決してなかった。それでも醜女と噂され、これまで一度も縁談の無かった姫に縁談があったことに対する父親の明け透けな安堵は、やはり胸に痛かった。
 そんな娘の心中に気がつくはずもなく、いかつい顔の高松城主はよくぞ聞いてくれたとばかりに膝を打った。
「喜べ、沙紀。毛利元就殿のご次男――少輔次郎元春殿が、そなたを妻に欲しいそうだ」



 空気が澄んできた所為だろうか。ほんの少し前より、川のせせらぎが柔らかく聞こえるようになった。よく見れば浮かぶ雲は千切ったような綿雲になり、空の高さも明らかに以前とは変わった。
 河原でゆらぐ葦の葉の先端から、赤蜻蛉が一匹飛び立った。まだたった一匹ではあるが、今年初めて見る、秋の訪れの証であることには違いない。
「毛利の次男――ああ、それは吉川に養子に行ったうつけのことだな」
 土手に仰向けに寝そべった次郎は、口に何処のものとも知れぬ葉を咥えていた。その先端に先ほどの蜻蛉が止まる。鼻先に止まった虫を見やって、切れ長の瞳が中央に寄っている。
 今日もまた、沙紀が里に下りるとそこにいた男は、沙紀の顔を見た途端、彼女の様子が尋常ではないことに気がついたらしい。いつものように遊んでもらえると思ってじゃれついてきた子供達を言いくるめて家に帰してしまったため、今、この場所にいるのは沙紀と次郎の二人だけだ。
 いつしかこの男が三入荘にいるのが当たり前になりつつあるとはいえ、何故、自分はこのような話をこの男にしているのだろう。こんなどこの誰とも知れぬ、得体の知れない男になど。浮かんで当然の疑問より、先刻、男の口に上った言の葉の方が気になった。
「……養子って?毛利のご次男は養子に出られたの?」
「ああ、跡取りの長兄は生真面目過ぎるほどに真面目だが、その分、次男が殆ど城にいつかんほどのうつけでな。これは持て余すっていうんで、吉川に養子にやられたらしい」
 毛利の正室は吉川の娘なので、表向きの大義名分はたつ。だが吉川家にはまだ若い当主と跡継ぎの息子がいたはずで、そんなところに息子をやって、元就は吉川の家をどうしようというのか。
「今の小倉山城主――吉川興経は家中で人望がない。興経の叔父が毛利に申し入れたとのことだが、それを利用してあわよくば吉川の家督を毛利の手の内にという、あの男らしい策略だろうな」
 毛利の家はこの辺りではかなりの力を保っているし、毛利の奥方――元春の母親は既に亡くなっているので嫁いびりの心配もない。そう言って父は手放しに喜んでいたが、さように複雑な事情を抱えているのであれば、そうめでたいばかりの縁組ではないだろう。
「それで醜いと評判の熊谷の姫を娶って、息子の後ろ盾にしたいわけね」
「沙紀殿?」
「そうでしょう?あの父のことだもの。わたしを娶ってくれる殿方があれば、喜んでその方の為に働くわ」
 尼子と大内に挟まれ、日々戦の危機にさらされているのは毛利も熊谷も同じ、となれば味方は一人でも多い方がありがたい。熊谷は今のところ毛利に従属しているが、ここでもう一つ、熊谷を自陣により深く引き込みたいのだろう。それにはただの婚姻より、醜女で嫁の貰い手のない娘との縁組は非常に都合がよい。熊谷に恩が売れる。
「……それは厳しいな」
「政略結婚とは、そういうものでしょう」
「政略結婚だって、そう悪いばかりではないだろう。俺の両親は政略結婚だったが、夫婦仲は円満だったぞ。母が死んで随分たつが、親父は未だに母が先に死んだことを嘆いている」
「だけど、わたしは醜いから――」
「俺は沙紀殿を醜いと思ったことは一度も無いぞ。はじめて会った時から、可愛らしいとは思っているがな」
「それは!……あなたの審美眼がどうかしているのよ」
「どうかしていて結構。見てくれの美醜に捕らわれて、相手の信実を見抜けぬ方がよほど間抜けだ」
 何気ない言葉に、心の奥底が波打った。昔、叔母に言われた言葉が脳裏に蘇る。人はそれぞれ皆、その者にしかない宝を持っている。いつかその宝を美しいと思ってくれる相手がきっと現れる――
 実際問題として熊谷は毛利に従属しており、主君の息子との縁組を断る所以は熊谷にはない。ましてや父があれほどまでに喜んでおり、政略的にも意義があるとなれば、そう遠くない将来、沙紀は毛利の次男に嫁ぐことになるだろう。沙紀自身の意思などお構いなしに。
 立てたままの膝に顔を埋めた瞬間、傍らにだらしなく寝そべった若者の顔が、苦しそうに歪んだことに気がついた。肘を支えに身を起こそうとして、上体を立てることができないでいる。
「次郎殿?どこか怪我でも?」
「いや、特には何も……」
 言って眉をひそめた、その襟元が赤黒く変色している。咄嗟、ある一つの事態に思い当たり、沙紀は若者の襟首に手をかけ、着ているものを左右に押し開いていた。
「――お、おい!沙紀殿!」
 鳩尾の青痣は打撲の痕で、肩から脇に続いているのは刀傷だろう。襟元の染みはこの傷から染み出した血だ。よく見れば肩口も何かに打ち据えられたように赤く腫れている。着物を引き剥がしたとはいっても首から肩下までのこと、だがその範囲だけでも数え切れない程の傷跡が、若者の身体に刻まれている。
「……」
「こないだちょっと油断してな。気づいたら囲まれていた。……いや、倒すには倒したんだぞ。ただ倒すまでに少々、時間がかかり過ぎたというか……」
 絶句したまま二の句を継げない沙紀の頭上に、苦しげな言い訳が降ってくる。この男がどれ程の使い手かは、沙紀自身が過去に体感している。それほどの男に手傷を負わせたのだ。それは恐らく袋叩きと呼べる事態だったのではあるまいか。
「一体、誰がこんな……」
「まあ、こんな俺にも色々事情があってな。一応、医者にはちゃんと見せたんだ。今日だって、遠出しても問題ないと言われたから、ここまで来られたんだが……血止めの包帯はきちんと巻いておくべきだったな」
 固まってしまった沙紀の指を一つ一つ丁寧に引き剥がして、若者は着ているものを整え直した。いつ見てもよいものを着ているが、ところどころに血の染みが浮いてしまっている。
「……薬」
「は?」
「観音寺まで行けば、血止めの薬草があるわ。打ち身によく効く貼り薬も!」
 根之谷川を挟んで熊谷の邸の向かいにある正法山観音寺は熊谷氏の菩提寺であり、有事の際には武将や領民の救護所にもなる。今も最低限の薬草はそろえてあるはずだ。
「おい、沙紀殿!」
 我に帰った男が叫んだ時には、沙紀の姿は既に土手の上にあった。どうやら本気で、薬草を取って戻ってくるつもりらしい。遠ざかる背中に向け、若者はそっと息を吐き出した。
「可愛いと思うんだがなぁ……俺には勿体ない程に」
 


 父の主君にあたる毛利元就が、三入荘にやってくる。その知らせが高松城に届いたのは、件の縁談話から数日後のことだった。
 いくら近隣であるとは言っても、城主同士はそう簡単に互いの城に足を踏み入れたりはしないものだ。大抵の場合は使いに臣下をやれば事は足りる。それをわざわざ自らやってくるというのだから、余程飾り気のない人柄なのか――元就は元就なりに、次男の縁組の首尾が気にかかるのかもしれない。それはそうだろう。何しろこちらは、天下の醜女だ。
 客人のもてなしともなれば、さすがに城主の娘が城を抜け出しているわけにもいかない。どこか浮き足だった風の侍女に髪を梳かれ、打掛をまとって白粉を叩かれると、ただでさえ大きな身体はさらに大きく、大ぶりの目鼻はのっぺりと白く染まった。
 ――似合わない。
 わたしは着飾った方が醜く見える。そう気がついたのは幾つの時だったろう。大抵の娘は長じれば着物や化粧に興味を持つもので、事実、客人が来ると聞いて、妹達は二、三日も前からたいそう浮かれていた。だが沙紀の心は重かった。質素な着物で里を歩いていればさほど気にはならない己の美醜を、こうして鏡に向かえば嫌というほど実感してしまうから。
「――父上、沙紀でございます」
 重い気分のまま襖を開けると、父は既に客人と談笑していた。傍らには同じように正装した母が仕えていて、膳や盃など、もてなしの準備が整っている。
 現在安芸で最も力のある国人――毛利元就は思っていたよりはるかに温和な、どこか貴公子風の整った顔立ちの男だった。父の信直よりは大分年上のはずなのに、四つか五つは若く見える。もっとも沙紀の父は人一倍大柄なので、並べば誰だって華奢で弱々しげに見えるところを、それでも存在感を失わぬあたり、さすがは安芸にこの人ありと言われる武将なのかもしれないが。
「お初にお目にかかります。熊谷信直の娘、沙紀でございます。毛利様におかれましては、突然のご来訪にあたり、ろくなおもてなしもできず――」
「おお、そなたが、沙紀姫か。こちらこそ、急に参って申し訳ない。どうか顔を上げてはくれないか」
 どこまでも穏やかな元就の言葉に、信直、その妻――熊谷に属するすべての者が息を呑んで固まった。彼らとて人の親、噂には聞いていたがこれほどまでに醜いかと、自分たちの姫が罵られる姿を見たいわけでは決してない。
 ならば、いっそ息子の妻にと望んだ娘のあまりの醜さに、今ここでこの縁談を壊してはくれないか。意を決して顔を上げた沙紀の顔から、元就は視線を逸らさなかった。しばしまじまじと沙紀を眺めた後、ほう……と長く息を吐く。
「あの馬鹿息子……いや、愚息が熊谷の姫を妻にと言った時には、何と物好きな……いや、珍しいことを言い出すものだと思ったが。人の噂とはあてにならないものだな。熊谷殿、随分と可愛らしい姫君ではないか」
「……」
「そ、そうか、喜べ沙紀。舅殿はそなたを気に入ってくれたそうだぞ!」
 そこにいた誰もが意外な言葉に、父は気が抜けたように笑い出し、母は着物の袖で目許を拭いだした。沙紀は顔を上げた状態まま、目の前の男を見据え続けた。
 この声。この口調。
 はじめて聞いた時から、どこかで聞いたような声だと思った。否、この声にほんの少し快活さを足して、二十ばかり若返らせれば、それはまさしく。
 ――まさか。
「――父上、遅くなりました」
「おう、次郎か、遅かったな。姫君はもう来られているぞ」
 途端に明るさを増した熊谷の家族の前で、再び襖が押し開けられた。現れたのは二十少し前くらいの若い男、快活な口調、整った風貌に、今日もまたよい仕立ての着物を着ている。
「毛利……否、吉川少輔次郎元春と申します」
 見慣れた男はそう言って、晴れやかに笑った。





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