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永遠より長く


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 2
 少輔次郎と名乗った男は、その後もたびたび三入荘に現れるようになった。特に示し合わせているわけでもないのに、沙紀が城を抜け出すと決まって、近くで子供たちと棒を振り回して遊んだり、川で魚を獲ったりしている。
 いつもそれなりによい着物を着て、連れている馬の質もよいことから見て、かなり良い家の子息であることは間違いない。少輔次郎というのは幼名だ。だが、とうに元服を済ませている風体であるにもかかわらず、いくら水を向けても、若者は決して実の名を明かしはしなかった。
「――姫様、沙紀姫様。これは何のお薬?」
 大きな籠を抱え持った少女の言葉に、沙紀は現実に引き戻された。
「あ、ええと、これはオオバコ。咳止めの薬になるのよ。――千鶴」
 いつもいつも、お忍びで城を抜け出してばかりいるわけではない。薬草や保存食等、戦の為の準備をするのは、城主の娘の大切な務めの一つである。オオバコは大葉子ともいい、咳止めや消炎作用があって、使い道が豊富な植物だ。茎の部分を絡めて引っ張って、どちらが先に切れるかを競って遊んだりもする。沙紀も子供の頃によくやった。
「もう。太助はどこにいったのかしら」
 薬草を籠に摘みながら少女が頬を膨らませている。千鶴は三入荘の豪農の娘で、高松城にも親しく出入りしている。薬草摘みに出かけた時には、千鶴の弟の太助も一緒だった――のだが。
「姉上、姉上、見て!次郎殿の言うとおりに仕掛けたら、こんなに取れたよ!」
 土手脇の河原から、随分とはしゃいだ声がする。黒髪から盛大に雫を滴らせて、少年はぶんぶんと網を振っていた。
「沙紀殿、腹が空かんか。こいつを焼いて昼飯にしよう」
 少年と共に、頭まで水に浸かっていたらしい。同じように水を滴らせた若者を、沙紀はねめつけた。
「わたしは貴方様の妻ではありません。お腹がお空きでしたら、ご勝手にどうぞ」
「つれないことを言うな。俺と沙紀殿の仲ではないか」
「どういう仲です?!」
「刃と刃を交えた仲だぞ。並みの夫婦より縁(えにし)は深い」
「誰と誰が夫婦ですか!」
 暖簾に腕押し、あるいは糠に釘。万事すべてがこの調子で、家の名も実の名も、問いかける端からはぐらかされた。このまま、まともに相手をしていては、陽が暮れてしまう。若者を無視して土手を上がった沙紀の背後で、幼い姉弟が顔を付き合わせ、ささやきあう声がした。
「前に母上が言ってたよ。こういうのを痴話喧嘩って言うんだって……」



 遠くの稜線に沈んで行く空の縁まで青い。ところどころに浮かぶ、大きな綿のような入道雲の合間を、雁の群れが飛び去って行く。
 山の緑は深みを増し、蝉の声は鳴り止むことを知らない。季節はまさに、夏の盛りを迎えたようだ。
 結局、沙紀と千鶴が城でこしらえてきた握り飯と、次郎と太助が捕らえた魚が昼餉になった。土手を少し登ったところで薪を囲んで川魚を焼き始めた沙紀と千鶴に、道行く民が気軽に声をかけて行く。城の姫とはいっても地方の小領主、里の民と城主一家の距離は近い。
 近くで普請でもあるのか、板切れや丸太を運んだ荷車が小道を通り過ぎて行く。そんなものを眺めながら握り飯を頬張っていると、世の中すべてが平和であると、錯覚してしまいそうだった。
 ――平和でなんか、ない。
 沙紀の父、熊谷信直は現在毛利氏に従属しているが、十数年前までは武田氏の臣下だった。その武田は尼子に、毛利は大内に服属している。熊谷の裏切りを怒った武田の大軍が、三入高松城を取り囲んだのは、沙紀が物心つくかつかないかの頃のことだ。
 西国――安芸の地はもう数十年も前から、尼子と大内という二大勢力の争いの場となっている。どれほど平和そうに見えても、その中で暮らす小領主には息をつく暇もない
 ――きっと、この男だって。
 決して実の名を明かさぬ若者は、邪気のない顔で釣ったばかりの川魚にかじりついている。彼はどちら側の人間だろう。尼子か、大内か。大内方ならばよい。沙紀の父も今は大内側の人間だ。だがもし、この若者が尼子側の人間だったとしたら――
「どうした沙紀殿?俺の顔に何かついているか?」
「こんなところで、のんびりしていてよいのですか?こうしている間にも、大切なご領地が、尼子か大内に攻め込まれているかもしれませんのに」
「はじめて会った時に言わなかったか?兄が上に一人おってな。俺は守る領地もない気楽な次男坊だ」
「このご時勢ですよ。兄上様にもしものことがおありになったら、後を継がれるのは、貴方様でしょう」
 現在熊谷が従属している毛利の城主、毛利元就は次男だった。兄が早世し、兄の子もまた早くになくなった為、家督を継いだ。
 長兄が早くに亡くなって、次男が領地を継ぐなど、珍しい話でもない。珍しくもない話とはいえ、勝手に他人の兄を死人扱いして、怒り出すかと思ったが、案に反して、若者は盛大に破顔した。
「その時は、他家に養子に行った弟が一人おるから、あいつが継ぐな。しかし沙紀殿、本当は俺に気があるのではないか。なんだか、婿入りの下調べをされている気が――」
「我が家には立派な跡継ぎがおります!」
「――沙紀殿!」
 唐突に、腕を掴んで引き寄せられた。固い胸板に頬が触れ、全身が自分以外の人間の熱に圧し包まれる感触に、心臓の鼓動が跳ね上がった。
 永遠かとも思われた一瞬、実際にはそれは、瞬き一つの合間の出来事に過ぎなかった。抱き寄せられた異性の腕の中で、沙紀は先刻通り過ぎたはずの荷車の一つが傾き、荒縄を引きちぎった丸太が、こちらへ向け、雪崩打つように転がり落ちて来る光景を見た。
「――千鶴!太助!!」
 はっとしてみやった先には、目を見張ったまま、動くことも逃げ出すこともできない姉弟の姿がある。
 予期せぬ事態に、それでも幼い姉は出来うる限りの迅速さで対応した。土埃を舞い上げながら土手を転がる丸太が姉弟をなぎ倒す寸前、あらん限りの力を振り絞って、弟を突き飛ばしたのだ。
「姉上?!」
 突き飛ばされた弟は、目を見開いたまま土手脇の草藪に尻から落下した。弟を救った勇敢な姉は、自身の体躯のゆうに十数倍はあろうかという丸太に身体を弾かれて、夏の陽光を弾いて鏡のように輝く、根之谷川の水面へ向かって落下した。
「千鶴!!」
 少女の体が上げた水飛沫からしばし遅れて、土地を抉り、草花をなぎ倒した丸太が次々と下して行く。
 高松山から三入荘を流れ、瀬戸内に注ぐ根之谷川は、高松城にとって天然の堀の役割を果たしている。かろうじて伸ばした細い腕を、最後に落下した土塊が無情に叩いた。小さな黒い頭が、水の流れに浮き沈む。ぞっとするような光景に、沙紀は男の拘束を逃れ、自身も川に飛び込もうとした。
「――待て、沙紀殿」
 飛び込もうとした、その肩を掴んで引き戻された。いつの間にやら着物を脱ぎ捨てて上半身裸になった若者の足が、地面を蹴り上げる。何をするの、と問いかける暇もなく、よく鍛えられた鋼のような裸身が、見事な放物線を描いて川面に着水した。
「次郎殿……?!」
 剣術だけではなく、水練のこつも身につけているのか。次郎が水に入った位置から千鶴の場所までは、ほんの二掻き程度の距離でしかない。逞しい腕が川の流れを掻き分け、小さな少女を捕らえたのを見届けて、沙紀はその場に膝をついた。



 荒れ寺の破れた屋根からのぞく月が丸い。濃紺の夜空には雲一つなく、そこここで瞬く星屑が、まるで夢の世界のようだ。
 夜になっても、途切れることなく続いていた蝉の声が先刻から聞こえなくなった。それでも、ここが幻想世界ではない証のように、時折、薪の炎にむかって羽虫が飛び込んでくる。
 住職がいなくなって十数年が経過した廃寺は、幸い、焚き付けにするものには事欠かない。炎を囲んで斜むかえに座った男にむかい、沙紀は三つ指をついた。
「千鶴を助けて下さって、ありがとうございました」
 姉に突き飛ばされて材木の直撃を免れた弟の太助はもちろん、川に落ちた千鶴にも、多少の打ち身と擦り傷以外に大きな怪我は残らなかった。念の為に医者を呼び、戸板乗せて家に帰したが、それもすべて今前の前にいる男の力があったからだ。
 これでも一応格式ある武家の娘なので、一通りの作法は身につけている。深く垂れていた首を押し上げると、どこか呆気に取られた風の男と目があった。
「礼を言われることではない。目の前に溺れている子供がいれば、誰だって己に出来ることはするだろう」
「……そうでないこともあるわ」
 沙紀の記憶にある一番古い記憶。それは父信直のかつての主君であった武田の軍勢が三入荘を踏み荒らす光景だった。鳴り止まぬ怒号、燃え盛る炎。逃げ惑う領民達の背に次々と矢が射かけられた。
 当時わずか三つの沙紀が生き延びられたのは、城主の娘として、大勢の家臣や家来に幾重にも囲まれ、守られていたからに過ぎない。城主の娘より領民が、男より女が、大人より子供が。いつの世も弱いものが真っ先に踏みにじられる。
 しばし言葉もなく見合った後、若者が先に口を開いた。発した声音からはいつもの快活さが消え、真摯に乞うているかのような響があった。
「沙紀殿は武士が嫌いか」
「……好きではないわ」
 武士の家に生まれ、大勢の武士に囲まれ育ち、城主の娘として仰がれながら、こんなこことを言うのは不孝者だろうか。だが今向かいあった男の眼差しには、偽りやごまかしを許さない、強い意志のようなものが感じられた。
 言い切った沙紀の顔から、男は視線を逸らさなかった。やがて口元を緩ませ、ふ、と吐き出すように言う。
「初めて意見が合うたな。俺も武士は嫌いだ……」



 さすがに一日二度も水を浴びれば、身体の表面は乾いても、芯の部分が冷え込んでしまう。熊谷の姫も気を使ったのか、どこかで酒を仕入れてきてくれたのだが、どうせ気を利かせるなら酌の一つでもして欲しかった。姫君の去った後の廃寺で、手酌で徳利を傾けていると、炎の向こうで、かさりと暗闇が揺れた。
「――若」
 闇の向こうから、呼ばわる声がする。片手の徳利を床に置き、次郎は口の端を持ち上げた。
「――志道(しじ)か。どうだ、調べはついたか」
「は、荒縄は明らかに刃で切られていましたが、それがどちらの手のものかまでは、さすがに……」
「俺を狙ったのなら吉川、姫を狙ったのなら武田だろうな。しかし熊谷は守りが甘い。大事な姫をあんな風に出歩かせて、何かあったらどうするつもりだ」
 ひらりと再び炎が揺れた。再び闇が発した声は、今度は笑いの色を含んでいる。
「それで、本来の目的の首尾はいかほどで?」
「本来の目的だと」
「姫君と一緒にいらっしゃる時の貴方様は、とても楽しそうに見えましたが」
「黙れ」
 主の言葉に闇はただ静かに口を閉ざした。再びこの闇が彼に語りかけることは、今宵はもうないだろう。
 先程床に置いた徳利を再び傾け、男は一人呟いた。
「……まだ早い。今はまだ、な」





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