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ラスト・イニング番外編 卒業式



 北関東というよりほとんど東北に近い茨城市にとって、3月は春と冬の狭間だ。春めいた陽射しが顔をのぞかせたかと思えば、冬風が負けじと張り出してきて、薄墨色の空から凍てつく風が吹き抜ける。冬と春とが行きつ戻りつの綱引きを繰り返して、気づくと薄紅色の桜の蕾が綻び始める……それが茨城における春の定義だ。
 今年もまた、数日前には気温が上がって雲雀の鳴く声も聞こえ始めていたのに、今日の朝になって、いきなり冬に逆戻りした。卒業証書片手に空を見上げる空には、鉛色の雲がどんよりと垂れ込めている。もらったばかりの卒業証書をかばんにしまい、健也は軽く身震いをした。
 卒業式が終わると、茨城城東高校の各部活では、下級生による3年生の卒業おめでとう会が執り行われる。もちろん酒もタバコも持ち込み禁止で、1、2年生が小遣いやバイト代から費用を出し合って行うささやかなものだ。野球部では、昨年は調理室から借りて来た巨大なずんどうで、カーレーライスパーティをした。一昨年はたこ焼き祭りを行ったのだが、中途から闇たこ祭りに変貌し、1年坊主だった健也は貧乏くじを引きまくったものだった。
 今年は巨大な鉄板を用意して、お好み焼き大会を開催すると、新チームのキャプテンであり、甲子園ではライトのレギュラーだった田中一成から既に報告を受けている。頼むから中にガムとか梅干しとかは入れないでくれよ……切なる願いを胸に、野球部の部室に向かっていた健也は、グラウンド脇の小道からやや逸れたところにあるテニス部の用具入れの近くで、決定的な場面を目撃してしまった。野球部の元エースである塚原勇人が、髪の長い女生徒と二人きりで向き合っている。
「――甲子園の前からずっと、わたし、塚原君のことが好きでした」
 今年の夏の甲子園で、茨城城東高校は準決勝まで勝ち上がった。
 春夏通じて初の甲子園でのベスト4進出は、奇跡の快進撃、茨城城東旋風巻き起こると、全国紙やテレビにも大きく取り上げられた。県大の決勝戦には応援に来なかった吹奏楽部も甲子園のアルプススタンドにやって来たし、テニス部とバトミントン部の女子部員からなるチアリーダー達は、故郷から遠く離れて男ばかりのむさくるしい日々を送る野球部員の目を大いに楽しませてくれたものだった。
 準決勝で大阪の名門私立高校に負けて帰って来ると、地元での歓迎ぶりには正直、度胆を抜かれた。甲子園に出場した野球部員は一躍時の人となり、健也の中学からの友人である梵隆一郎にも彼女ができたし、2年生の三沢も、甲子園で1回1/3しか投げていない1年生の山根にさえ、他校生の可愛いガールフレンドができた。
 しかし、なのにどうして、四番キャッチャーでキャプテンの俺に彼女ができないのだろうか。高校3年の夏休み明けからしばらく、健也はかなり本気でむくれたり悩んだりしたものだった。
「ごめん……今は、野球のことしか考えられないんだ」
「うん。そうだよね、ごめんね。わたしも神奈川の大学に行くから、塚原君とこれからも連絡できたらいいなと思ったの。ごめんね、野球がんばってね」
 健也が自分自身の思考の渦に沈んでいる間に、塚原が告白を断って、泣き出しそうに顔を歪めた女生徒が走り去って行く。きっと、テニス部の卒業パーティに行くのだろう。部室の方角に向かったので、まともに顔を合わさずに済んだ。
「塚原、お前、もったいないとか思わないのかよ」
 健也が声をかけると、色白の元エースは露骨に渋い顔をしてこちらを見た。口の中で何やらもごもご言っているので耳をすませると、盗み聞きは人が悪い……と言っていた。たまたま行き当っただけで、好んで盗んで聞いたわけではないので、気にしないことにする。これくらい開き直れなければ、甲子園で全試合四番を張ることなどできやしない。
「サトエリに告られて断るような奴が、うちの学校にいるとは思わなかった」
 去っていった女生徒の名前は、里塚恵理という。健也や塚原と同じ3年生のテニス部員で、入学当初から可愛いと評判の女子だった。顔が可愛いだけではなく、性格もスタイルも人柄も成績もよいというほとんど奇跡のような存在だ。サトエリを嫌いな男子は茨城城東高校に存在しないと言っても過言ではない。
「お前もこれから神奈川で暮らすんだし、アドレスくらい交換しとけばいいじゃん」
「うん、でもさ。感じのいい子だとは思ってたから……僕が下手に付き合ったりして、不幸にしたら悪いと思って」
 むくれているわけでも、ふさいでいるわけでも、自棄になっているわけでもない。テストが終わったから今日からは部活ができるね、と言う時と変わらない口調でそう言って、左手で首の後ろを掻いている。夏まではお互い坊主頭だったが、今では普通の短髪くらいにまで伸びている。
 甲子園ベスト4のチームのエース。顔立ちもそう悪くないし、本人の性格は穏やかで人当たりがよく、どう考えても付き合っただけで女の子を不幸にするキャラクターではない。
 ――それって、やっぱり、お前の親父のことが原因なのかよ。
 塚原の実父が、過去に人を殺めたという事実がおおやけになったのは、県大会の準々決勝の直前だった。
 甲子園まで後3勝と迫っていた当時、健也を含めた野球部員は、塚原の実父のことをさほど大きな問題として受け止めなかった。2年生の三沢と1年生の山根という二人の控え投手はいたものの、あの夏のチームにとって、塚原は絶対的なエースだった。彼らにとって、それは何よりも明確な事実だった。
「……塚原、俺さ」
 思わず、言葉が口をついて出た。
「俺も隆一郎も、多分、ほかの奴もそうだったけど、その、お前の……親父のことって、あんまりずっと気にして来なくてさ。本当はもっと、ちゃんと、考えた方がよかったのかなって、後になって思ったりもしたんだけど」
 野球部に入部してすぐ、健也の背番号がまだ12番で、塚原にいたってはベンチ入りもせず他の1年生とスタンドから応援していた頃から、互いにバッテリーを組んで試合に出るようになった後もずっと、塚原は決して自分の感情を表に出さず、いつも他の部員の影に隠れるように、おっとりと大人しく笑っていた。
 それが、この少年が過ごして来た壮絶な年月の中で、仮面のように張り付いてしまった表情なのだと気付いたのは、去年の夏、彼がこのグランドではじめて声を荒げた時のこと。
 ――おれだって、甲子園に行きたいに決まっているだろう!だけどおれがいたら駄目なんだよ!おれがいたら、他のみんなまで、甲子園に行けなくなるんだ!
 本当に今更だけれども、今になって思う。もしかしたら、一度、誰かがきちんとこいつに告げるべきではなかったか。俺たちはお前の父親が殺人犯だろうが誘拐犯だろうが構わないと。塚原にそう告げるべき人間がいたのだとしたら、それは他でもない健也の役割だったはずだ。
「……まったくだよ」
 一瞬、虚を突かれたように目をしばたたいた後、元エースは口を尖らせた。
「普通はもう少し気にするもんだよ。中学まではずっとそうだった。それが高校じゃ、みんな、僕のピッチャーとしての属性しか見てないんだから。どんだけ、野球バカなんだよ」
 自分だって立派な野球バカのくせに、笑いながら元チームメイトをけなしてくれる。
「でも、柳君やみんながそうだったから、僕は甲子園で投げられたんだ。――本当に、感謝してる。ありがとう」
 不意に甲子園の最終打席を思い出した。3対1で迎えた9回の裏、連打で1点を返して、さらに2死満塁で、四番の健也に打席が回ってきた。3塁ランナーが帰れば同点、2塁ランナーが帰れば逆転サヨナラ。しかし3ボール2ストライクからの6球目は、健也のスイングをかいくぐって、相手キャッチャーのミットに一直線に吸い込まれた。
 歓喜する相手チームの選手達の声が、とても遠くに聞こえる。1塁走者だった塚原に頭上から声をかけられるまで、健也は自分がその場に崩れ落ちていたことに気づかなかった。
「――柳君、立とう。整列だ」
 甲子園出場が決まった県大会の決勝では手放しで泣いていたくせに、高3の夏が終わったあの日、塚原は泣いてはいなかった。むしろ健也の方が、これまで自分がリードしていると思っていた相手の肩にすがって、子供のように泣きじゃくった。
 そういえば、あの時も、こいつはこんな真面目な顔をしていたっけ。
 ――ああ、終わりなんだ。
 不意に浮かんだ感慨に打たそうになって、健也は拳を握りしめた。甲子園が終わった後には国体があり、健也も塚原も引退後も野球部の練習に参加していた。塚原がブルペンに入る時には、これまで通りボールを受けていた。
 だが、それも今日で終わりだ。バッテリーは解散だ。塚原が投げたボールを健也が受けることは、もう二度とない。
「――なあ、どんなもんよ、プロのキャンプってのは」
 重くなってしまった感情を振り払らおうと、あえて大きな声を出して学生服の背中を打ち据える。昨年秋、塚原勇人は高校生ドラフト4位で横浜にあるセントラルリーグの球団に指名された。そう、本日、高校を卒業したばかりの健也の同級生は、れっきとした現役プロ野球選手なのである。
 甲子園でさえ一度はおびえて逃げ出そうとしていた奴が、どんな心境の変化があってプロ志望届を出したのか知れない。甲子園から帰って来た後、監督の宇田川と部室で話し込んでいる姿をよく見かけたものだが、よくぞまあ、プロの世界に飛び込んでみる気になったものだ。
「あと10キロは太らないと上に行けないって言われて、毎日、強制的に食べさせられるんだ。あれってもう、新手の拷問だよ」
 見かけによらずタフだし、スタミナがないわけでもないのだが、やはり野球選手としては今でもかなり線が細い。ちなみに、九州で行われているプロ球団の2軍キャンプの食事は、質・量・味ともに申し分ないそうだが、半ば強制的に皿に食事を盛られ続けられる塚原にとって、プロの練習よりも人間関係よりも、食事の時間がトラウマになっているらしい。これはこれで逆効果だろうと健也は思う。
「まあ、そう言うなって。そのうち、先生はあの塚原勇人と甲子園でバッテリーを組んでたんだぞって、生徒に自慢してやるからよ」
 甲子園から戻った後、健也が医学部に進学しないと告げると、柳家はイラクかアフガニスタンか、はたまたチェチェン共和国を彷彿とさせるほど、激しい紛争地帯と変貌した。母は泣き、父は怒鳴り、学生時代、高校総体を諦めた伯父は何故かものすごく味方になってくれたりもした。
 結局、事態を収拾したのは祖母の鶴の一声だった。いわく、「柳家の子供が大学も出ていないなど、世間様に顔向けできない。学費は出す。どこでもいいから、大学に行け」
 だから、お言葉にありがたく甘え、教員免許の取れる私立大学に推薦で進学を決めた。2部リーグではあるが野球部があるので、大学でも野球は続ける予定だ。
「柳君は、いい先生になると思うよ。僕は柳君がキャッチャーだと気持ちよく投げられたから。あれって、すごい才能だと思う」
「いいキャッチャーといい教師の才能がどう繋がるのか、俺にはそっちの意味がさっぱりわからんけどな」
「僕にもよくわからないけど……取ってもらえるってありがたいってことかな。最近、つくづく、そう思う」
 バッテリーでわかったようなわからないような会話を交わしながら小道を抜けると、プレハブ小屋のような室内練習場の前で、誰かが手を振っていた。二遊間コンビの沖原と大崎がそれぞれお好みやきソースとマヨネーズを手にもって、左右に振っている。
「おーい!柳、塚原!さっさと来ないとお前らの分まで食っちまうぞ!!」
 既に野球部員が部室前に集まり、駅前で食堂を経営している三沢の家から持ってきたのだろう、黒光りした巨大な鉄板から香ばしい匂いが立ち上っている。――匂いを嗅いだだけで、腹が空いてきた。
 顔を見合わせて走り出したピッチャーとキャッチャーの後方で、蕾の桜が風に揺れていた。
 まだ固いこの蕾が綻び割れるころ、茨城に本当の春がやって来る。




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