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ラスト・イニング第五章 ピッチャー




  一回の裏のマウンドに上がった時から、嫌な予感がしていた。体が重くて、切れがない。監督と三沢のおかげで、気分は大分、楽になったが、大事な試合の前に思い悩んで寝不足になどなるものではない。真っ直ぐはそれなりに走っているのだが、スライダーが決まらず見極められる。カーブは決め球にはならないので、ストレートとチェンジアップだけで単調になったピッチャーを見逃してくれるほど、決勝まで勝ち上がって来たチームは甘くない。四回の裏に呆気なく連打で一点を先制された。
 このまま負ければ、これ以上、親父にまつわる騒動に巻き込まれなくて済むとは思わなかった。ピッチャーが諦めれば、そこで試合が終わってしまう。長年の経験上、調子が乗らない時は余計なことは考えずに、キャッチャーのサインに従うに限る。抑えればピッチャーの手柄、打たれればキャッチャーの責任。シニアの頃、ピッチングコーチが教えてくれた格言だ。さすがに口に出すと柳に殴られそうなので言ったことはないが、密かに座右の銘としている。
 何本かのヒットといくつかの四死球で走者を背負いながら、かろうじて八回までを一失点でしのいだ。九回の表に打順が回って来た時、得点差は一対一の同点で、セカンドにランナーがいた。
 セカンドランナーの大崎は茨城城東不動のトップバッターであり、百メートルを十一秒台で走る瞬足である。シングルヒット一本で十分ホームベースに到達できる能力を持つが、同点の九回表で、外野が相当前に出てきている。いかに大崎の瞬足を持ってしても、ホームベース突入が難しいかもしれない。もっとも勇人の後ろを打つのは四番の柳なので、最悪でも後ろにつなげば、まだ勝機はある。
 左バッターボックスをスパイクで慣らした時、タイムがかかった。茨城城東側の攻撃のタイムだ。ベンチから出て来た背番号十番の三沢が手招きしている。
「塚原さん、塚原さん」
 金属バットを片手に歩み寄る。ランナーを走らせるとか、サインプレーがどうこうという場面ではないから、狙い球についてか、あるいは打球方向の指示だろう。そう思って耳を寄せた勇人の耳元で、後輩の控え投手はにっこりと笑って見せた。
「監督から伝言です。延長十五回まで投げたくなかったら、ここで決めろ!以上です」
「……って、おい、それだけかよ」
 思わず突っ込みを入れて見やったベンチの最前列で、監督の宇田川が真剣な面持ちでグラウンドを見つめている。
 昨日の準決勝で、最後までエースをマウンドに送ることを躊躇っていた監督は、今日の決勝は迷うことなく、勇人を三番ピッチャーとして起用した。他に投手がいないとはいえ、一年生の山根なり梵なり、マウンドに立たせる選手がいないわけではない。結果的に大差で負けようが、それで監督の面目は守られる。
「十五回はきついっすよね。おれ、投げたことないですけど」
「何なら、途中で代わるか?」
「いえいえ、遠慮しときます」
 今朝の出発前、十点リードしたら代わってくれなどとぬかしてくれた二番手投手の発言は、完全に他人事だ。もちろん投げられる限りは何回でも投げるが、おれが打球にでも当たって投げられなくなったら、お前が投げるんだぞ、三沢。
 それでもベンチの言わんとするところは理解できた。最初から後ろに繋ごうなどと考えていればバッティングが消極的になる。ピッチングもバッティングも、気持ちが逃げていて良い結果が生まれるわけもない。
 土浦南のマウンドには背番号八番をつけた右投手が上がっていた。上手投げよりはやや腕の下がった、いわゆるスリークオーター気味のフォームから切れのあるスライダーを投げ込んでいる。
 右の横手投げは左打席から球の出どころが見やすい。初球、思い切り振りぬいた打球は一塁手のグラブをかすめ、ライト側のファールグラウンドを転々と転がった。
「フェア!」
 塁審のコールを一塁ベースの手前で聞く。走るスピードを落とさず、一塁を蹴って二塁を目指す。二塁にいたはずの大崎の姿はそこにはなかった。ボールがバックホームされずに三塁に返されるのは、ランナーが無事に生還した証だ。
 セカンドベースに滑り込んで、勇人は思わず拳を天に突き上げていた。普段はあまり感情をあらわにする性質ではなく、三振を取ってもゲームセットでも、派手なガッツポーズなどしたことはない。だが、この時はごく自然に腕が上がった。おれだ。おれが打った。祖母に嫌われた子供でも、母に捨てられた子供でも、人殺しの子供でもない。
 このおれが、チームを勝利に導く勝ち越し打を打ったんだ。
 その思いは、九回裏に同点打を打たれて、十回の表に再び一点を勝ち越してもらっても変わらなかった。監督はもう勇人をマウンドから下すつもりはないらしく、延長になって、控え投手の三沢と山根は投球練習をやめてしまった。十回裏のマウンドに向かうエースを止めるものは、どこにもいなかった。
 十回の裏、一死からヒットを打たれてランナーが出た。続くバッターの送りバントはマウンドを駆け下りた勇人の真正面、しかしピッチャーから二塁への送球はやや、三塁側にそれた。ベースカバーの沖原が難なく捕えて二塁はアウトにしたものの、一塁に転送はできず、ランナーが残る。二死一塁。バッターは四番。四番打者は四回の表に、先制のタイムリーを打っている。
 グラブを片手に、背番号六番が近づいてくる。
「悪い、塚原」
「え?」
「ゲッツーできなかった。ごめん」
 準々決勝でどん詰まりの逆転サヨナラタイムリーヒットを打った遊撃手が、本気で項垂れている。ショート沖原は茨城城東の守備の要だ。レギュラーになって以来、勇人は彼があからさまなエラーをするところを見たことがない。そもそもダブルプレーを取れなかった一番の要因は勇人の送球が逸れた所為であって、沖原の守備が原因ではない。
 それでも責任を感じずにいられない程、沖原は自分の守備に絶対の自信を抱いているのか。だとしたらものすごい自信だ。だがその自信が決してうぬぼれでないことを、勇人は誰よりもよく知っている。
 茨城城東の守備は固い。絶対にエラーをしないのではなく、堅実なのだ。派手なファインプレーはなくとも、アウトにして欲しいと思う打球を確実にアウトにしてくれる。マウンドにいる立場として、これほどありがたいことはない。
 三対二で迎えた十回裏、二死一塁。送りバント失敗の責任を感じているのか、よほど足に自信があるのか、一塁ベースに残ったランナーはリードを大きくとって、こちらを揺さぶろうとしてきた。左投手はセットポジションに入ると、一塁ランナーがほぼ真正面に見える。だからこそ左投手からの盗塁が難しいわけだが、ピッチャーの立場から言わせてもらうと、目に見える分、どうしたって気になってしまう。
 何度目かの牽制球を投げた後、キャッチャーの柳が右手で強くミットを叩いた。今では県を代表するスラッガーとなった柳のリードは、いつも明快で力強い。今もまた、一八.四四メートルの距離を隔ててもなお、その思いがはっきりと伝わってきた。
 ランナーを気にするな。俺を見ろ。思い切り腕を振って投げ込んで来い。
 カウント二ボール二ストライクからの六球目、インハイの直球にバッターは手を出して来た。鈍い金属音が響いて、ボールがほぼ垂直に空へ向かう。
 まるでシートノックの最後で、監督が打ち上げるキャッチャーフライのようだ。いや、シートノックの時でさえ、これほど綺麗なキャッチャーフライはそうそう打ちあがるものではない。マウンドを駆け下りてボールを指さし、声を張り上げる。
「キャッチャー!」
 マスクを放り投げた柳が、落下点に入る。その右手が捕球の意思を示して大きく上がる。茨城城東の応援席からは歓声が、土浦南の応援席からは悲鳴が、同時に響き渡る。
 見上げた空は青かった。空の色が目に沁みると感じたのは、生まれてはじめてのことだ。歓声や悲鳴が遠ざかり、自分の鼓動の音だけが、やけに大きく響いている。
 青空に向かって掲げた柳のミットに、今、ボールが落ちてくる。
 



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