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ラスト・イニング第五章 ピッチャー




  準々決勝で御堂実業を逆転サヨナラで破って、準決勝はひたちなか栄を相手に八回からリリーフして、九対七で勝利した。
 正直なところ、準決勝のリリーフのマウンドはきつかった。相手は今大会屈指の強力打線、九回の裏に連打で一点を返され、さらに四球で二死満塁になった時には、さすがにサヨナラ負けを覚悟した。ひらき直って遊び球なしの三球勝負が功を奏したが、できることなら、あんな経験はもう二度と御免こうむりたい。
 そんな話をキャッチャーの柳と交わし、スポーツバック片手に校門を出たのは、ちょうど夏季講習を終えた生徒達が下校する時刻だった。野球部はまだ大会が続いているが、一部の部活はすでに夏の大会を終え、三年生は受験に標準を合わせはじめている。斜め前を歩いているのは隣のクラスの陸上部の生徒で、すぐ隣を歩いている女生徒は、可愛いと評判の同じクラスのテニス部員だ。それほど親しいわけではないが、勇人と目が会った瞬間、口元を緩めて笑顔を見せた。
「宮越君。宮越勇人君でしょう」
 実のところ、同じ制服を来た高校生の人並みの中で、「宮越」の名を呼ぶ声にはかなり前から気が付いていた。宮越は勇人自身の旧姓であり、佐藤や鈴木ほどよくある苗字ではないが、学校内に一人もいないほど珍しい名前でもない。どこかに自分の旧姓を同じ苗字の生徒がいるのかと、気に留めずに歩いていた。
 さすがにフルネームで呼ばれれば、それが自分のことだと認識できる。勇人が歩みを止めると同時に、ベージュのパンツスーツに身を包んだ女性が近づいて来た。勇人よりは年上だが、世間的にはまだ若者と呼ばれる年齢、多分、二十四、五歳くらいだろう。綺麗にカールした長い髪から香水の匂いが漂ってくる。自称、年上好きの梵が見たならば大喜びしそうなキャリアウーマン風の美人だ。
「宮越勇人君よね。わたしはこういうものだけど、話を聞かせてもらえるかしら」
 勇人は正式な塚原家の養子であり、戸籍上も住民票も塚原に改姓している。それでも敢えて旧姓で名を呼ぶ言葉に、底意を感じる。差し出された名刺には、電車の吊り広告で見たことのある週刊誌の名前があった。
「取材とかそういうの、うちは監督の許可がないと駄目なんで。監督の許可を取ってからにして下さい」
 秋の県大会で七回参考試合ながらノーヒットノーランをしたあたりから、地元新聞等の取材を何回か受けた。無論、この女の目的が茨城城東のエースとしての勇人ではないことは承知の上だ。
「君は自分を被害者だと思っているんじゃないの?」
 無視をして歩みを進めた瞬間、背後から大音声で叫ばれた。
「君のお父さんは、罪もない幼い子供を二人も殺害した殺人犯よ。目の前で我が子を殺された親御さんの嘆きを考えたことがある?殺された人の遺族が、高校野球で活躍する君を見て、どう感じるかを一度でも考えてみたことがあるの?」
 下校途中の生徒達が、ざわめきながら歩みを止めて、男子高校生とキャリアウーマンの取り合わせを見比べている。
 勇人は自分を被害者だと思ってはいないが、加害者だとも思っていない。だから、まだ長野にいたとき、犯人は人様の子供を手にかけるくらいなら自分の子供を殺すべきだったと人に面と向かって言われても、おれが代わりに死ねばよかったとは思わずにすんだ。
「君は自分がどれだけ自分勝手なことをしているか、わかっていないでしょう!犯罪事件において、何よりも優先させるべきは、被害者の遺族の感情なのよ。被害者の遺族は、今も大切な人間を失くしたことを、ずっと嘆き悲しんでいるんだから!」
 そんなに悲しんでもらえるならいいじゃないか。思わず閉ざした瞼の裏で、どす黒い感情が渦を巻く。
 祖母が本気で勇人の将来を心配して左腕を縛っていたとは思わない。彼女はただ自分の気に食わない孫を折檻していただけだ。そんな祖母から母は庇ってくれず、あげくのはてに暴力を振るう父親のもとに、小学生の勇人を置いて出て行った。寝ている勇人の枕を蹴飛ばして二十四時間営業のドラッグストアに酒を買いに行かせた父親にいたっては、帰り道で勇人が車にはねられて死んでも何とも思わなかっただろう。
 おれが死んだって、悲しんでくれる家族なんて誰もいなかった。なのにどうして、おれが親父の罪の責任まで取らなきゃならないんだよ。
「それをわからないままでいたら、君もお父さんと同じ大人になるわ。殺人犯の息子がエースの学校が甲子園に行くなんて、許されることじゃない。あまり世の中を舐めない方がいいわよ。君たちが甲子園に行くなんてこと、世の中が絶対に認めない!」
 ああ、そうか。おれも親父と同じ大人になるのか。あんな風にみじめで愚かで弱い男になって、拘置所のトイレで首を吊って死ぬのか。
 でも、どうしてそんなことが、あんたにわかるんだ?
 学校を出て数十メートルの距離で、生徒が一般人ともめているようにでも見えたのだろう。校門からジャージ姿の男性教師が小走りに走り出てきて、立ちすくんでいる勇人と、顔を真っ赤にしているキャリアウーマン風の美女を見た。バスケットボール部顧問の数学教諭で、勇人が二年生の時の担任教諭だった。
 ほんの一瞬、勇人は教師が自分を助けに来てくれたのかと思った。野球経験はないが野球が好きな元担任は、高二の秋から野球部のエースナンバーをつけている勇人に、時々、大会の結果を聞いてくることがあったから。
 しばし、勇人の顔を見つめた後、バスケット部顧問の男性教師は深く息を吐きした。まるで魂まで吐きそうと言わんばかりの深い深いため息だった。
「塚原、お前、自分がどれだけ学校に迷惑をかけているのかわかっているのか。野球部が甲子園なんか行ってみろ、この先もこんなことがわんさかと起るんだぞ」
 ざわざわと揺れる人ごみの中で、何かが切れる音を聞く。勇人の中でずっと張りつめていた何かが切れた音だった。

 勇人の自室は、塚原家の二階にある。六畳間にベッドと机と箪笥が置いてあるだけの質素な部屋で、CDラジカセも漫画本も、プロ野球選手のポスターさえもない。
 参考書と教科書が並んだ机の上には、今年の大会前の夏合宿で撮った写真が飾ってあった。恒例の夏合宿の打ち上げに、野球部員全員で海辺に行って花火をした。監督と部長教諭付きの打ち上げだからそれほど羽目を外したわけではないが、とにかく楽しかった。キャッチャーの柳はこんな時でも真面目な顔をしていて、写真の中央付近で、二遊間コンビの大崎と沖原が謎のポーズを取っている。
 はじめの頃は「塚原」と呼ばれても咄嗟にそれが自分のことと認識できず、なかなかチームに馴染めなかった。試合中もポジション名で呼んでくれれば反応できても、名前を呼ばれると咄嗟にそれが誰のことだかわからない。それがいつしか「宮越」の方が自分の名前と認識できなくなったのは、間違いなく、彼らのおかげだ。
 ――塚原、楽にな。打たせていいぞ。
 ――ナイスボール、塚原。
 勇人の父親が殺人犯であると知っても、野球部員の勇人に対する態度は変わらなかった。現実問題として、二番手投手の三沢に完投能力はなく、茨城城東の投手力のほとんどを勇人が担っている。勝ち進むためには絶対にエースが必要だ。
 それならそれで構わない。勇人はチームが好きで、仲間たち好きだ。高校三年最後の夏、このチームで一試合でも多く試合をして、できることなら甲子園のマウンドで投げたい。
 高校野球のピッチャーならば、誰もが抱く感情だ。その思いがなければ、毎日のきつい練習も、炎天下の連投にも耐えられるものではない。
「畜生……」
 夏合宿の写真の中で、勇人自身は大はしゃぎの梵に抱き着かれ、右端で困ったように笑っている。日に焼けない肌質は母親譲りだが、目鼻立ちは父親に似ていると子供のころから言われていた。明日の試合に勝って甲子園に行けば、試合は全試合NHKで全国放送される。勇人が好投してもノックアウトされても、全国版の新聞やニュースにこの顔が出る。
 いや、勇人の顔が父に似ていなかったとしても、父に傷つけられた人間にしてみれば、犯人の子供が生きて野球をしていること自体、許せないことなのだろう。
 心の奥底のさらに奥深くに、しまい込んでいる記憶がある。初めてのキャッチボールの相手が父親だった以上に、誰に話すことも打ち明けることもできない記憶だ。
 父が事件を起こす数日前、勇人は自宅で数か月ぶりに父と会った。
 その頃はほとんどシニアの監督の家で暮らしていたので、自宅には冬物の衣類を取りに行っただけだった。中学二年から三年にかけて、勇人は十センチ以上身長が伸びたので、ズボンやシャツは着られないものが多かったが、マフラーや手袋ならばまだ使えるものはある。思いつくだけの冬物衣料と、ついでに小学校の頃に好きだった野球漫画を数冊スポーツバックに詰めて、家を出ようとした時に、玄関先で父親と鉢合わせしたのだ。
「俺の家から何を持ち出すつもりだ。お前は泥棒か!」
 数か月ぶりに出会った息子に、父は唾を飛ばして掴みかかってきた。上背こそまだ父の方がわずかに勝っていたけれど、何よりも日々の鍛え方が違う。ひょろひょろの父のパンチなど、当たったところで痛くもかゆくもないのだが、この時の父は前にあった時よりさらに痩せていて、言葉の呂律も回っていなかった。飛んできた拳を難なくかわしながら、勇人は、ふと、親父、まさか悪い薬でもやっているんじゃないだろうな、と思った。
 そんな感情が表情に出たのかもしれない。まなじりを釣り上げた父親が、おもむろに、傘立てに突っ込んであった金属バットを振り上げた。少年野球時代に、勇人が家で素振りに使っていたものだ。さすがにあれで殴られたら怪我をする。とっさに家の奥に逃げようとした時、父が振り回したバットが左肩をかすった。
「俺はお前の親なんだ、父親なんだぞ、いいか、お前は子供で、俺は親なんだ……!」
 だから、親は子供に対し生殺与奪の権利があり、何をしたって構わない。それは塚原明人が、母親の登美子から引き継いだ価値観だった。彼の不幸は、自分は母親からそっくり同じ価値観を引き継いだのに、息子がその価値観を引き継がなかったことだ。
 金属バットがまともに当たれば、左腕が折れる。本能的な恐怖に、考えるより先に身体が動いた。野球があるから、他の何を失っても野球ができる場所だけはあったから、チームメイトが家から持ってきた弁当を食べている時間に、一人でランニングするしかなくても、身長が伸びて丈が足りなくなった制服のズボンをそのまま穿き続けて級友に笑われても、それでもまだ生きて来られたのだ。
 毎日朝晩十キロ走り込み、投げ込みで鍛え上げたピッチャーの拳に、中年男はひとたまりもなかった。勇人の拳をまともに受けた父は、靴箱に背中から倒れ込んだ。父の手を離れた金属バットが玄関先に転がって行く。衝撃で、靴箱の上に積まれていた紙の箱が落ちてきて、白髪交じりの頭にぶつかった。
 これまで散々殴られたり蹴られたりしてきたが、勇人が父を殴り返したのは、正真正銘この時がはじめてのことだった。これまでだって、やろうと思えばできたのだ。殺してやる。こんなひょろひょろの男一人、今のおれなら、簡単に殺してやる――。
 衝動に支配されかけた瞬間、ほこりまみれの玄関の三和土に、だらしなく尻をつけた男とまともに目があった。
 それは親の目ではなかった。人間の目でさえなかった。獣の目だった。この時の父は、自分自身の縄張りだと思っていた場所に、自分よりはるかに若くて力のある別の雄を見つけた獣の目をしていた。
 それで、目が覚めた。だからそれ以上は殴ることも話すこともなく、今度こそ本当に黙って家を出た。次に会った時には、死体安置所のベッドで冷たくなっていた。
 父が事件を犯した後、一度だけ刑事から話を聞かれたことがある。犯人は既に捕まっているし、こちらは未成年だし、シニアの監督が同席すると言って聞かなかった為、刑事達からそれほど厳しく何かを問われたわけではない。二人組みの刑事のうちの一人など、自分にも中学生の子供がいると言って、最初から勇人に同情的だった。
 刑事に父と最後に会ったのはいつかと聞かれ、勇人は三カ月前と答えた。三カ月前、シニアの監督の家で、養子縁組の話を持ち出した際に暴れ出し、交番から巡査が駆けつける騒ぎになっていたから、刑事達も既に調べはついていたのだろう。それ以上は何も聞かれなかった。
 事件の数日前にお父さんは、一度自宅に戻られたようですが、君はお父さんには会いませんでしたか、とは聞かれなかった。お父さんの身体には誰か殴られた痕が残っていたけれど、君は誰に殴られたか心当たりはないか、とも問われなかった。だから誰にも何も言わずに、茨城に来た。
 開け放した二階の窓からは、蛙の声が盛大に鳴り響いている。時刻は既に夜の十一時を回り、田畑に囲まれた住宅街に人の気配はなく、夜空で星屑が瞬いている。明日の決勝戦もまた、暑くなりそうだ。
 部屋に上がってくる前に、リビング隣の書斎にあるパソコンで過去に大会を辞退した硬式野球部のデータを呼び出してみた。最近では四年前、隣市にある御堂実業が部員間のいじめが原因で、地区大会の出場を辞退している。さすがに、エースの父親が殺人犯であることがわかった為に辞退に追い込まれた事例は見つからなかったが、それだって、今後の展開次第ではわかったものではない。
 茨城城東のホームページ上からは、学校生活にまつわる様々な書類がダウンロードできる。パソコンから印刷してきた書類を机に広げ、勇人はその場に頭を垂れた。
 期待を裏切られることになら慣れている。祖母がいなくなれば両親と穏やかに暮らせると願った望みも、シニアの監督夫妻を養父母に長野の名門野球高校に進むという希望も、そのもっとずっと前、甲子園のグラウンドに立つ自分を両親に応援してもらおうと願った夢も、結局は、かなわかなかった。
 だから、耐えられる。自分の所為でチームが甲子園に行けなくなるくらいなら、明日の試合に勝って、甲子園に向かう仲間たちの背中を笑って、見送ってみせる。
 例え、身を引きちぎられるように辛く、苦しいと感じようとも。




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