ラスト・イニング第五章 ピッチャー




  祖母が亡くなったのは、小学五年の夏のことだった。
 前の年の冬にすい臓にがんが見つかり、手術はしたものの進行が早くて手遅れだった。家庭内での威圧的な態度からは想像もつかないほど、呆気のない最期だった。
 少年野球チームの仲間やクラスの友達に言わせると、祖父母とは孫にたいそう甘くて優しくて、一緒に住んでいても離れていても、大好きな存在であるらしい。親にねだって買ってもらえなかったグラブを買ってもらったチームメイトも、夏休みなると必ず祖父母の家に遊びに行くクラスの友達も、祖父母が亡くなったら心から大泣きすると言っていた。
 しかし、祖母ががんで余命幾ばくないと知らされた時、当時五年生になっていた勇人は、血を分けた孫としてあるまじきことに、心の底からほっとした。早くいなくなって欲しいと、神棚にむかって手を合わせて祈ってみたりもした。
 祖母さえ家にいなければ、うっかりペンを左で握っているところを見られて押入れに閉じ込められることも、祖母に叱られた母が風呂場で泣いているのを見ることもない。父親と母親と三人で穏やかな生活を営めるではないかと、晴れやかな希望さえ抱いた。
 勇人が祖母に腕を縛られても、母は泣くだけで助けてはくれず、父はずっと、そのどちらにも見て見ぬふりをしてきた。それでも家族にいい思い出がないわけではない。数は少ないけれど、だからこそ宝石のように輝いている記憶がある。小学校三年生の時、祖母が町内会の旅行で出かけている隙を見計らって、父が野球のグローブをプレゼントしてくれた。子供用ではあったが革製の本格的なもので、左投げ用のものだったから、父は父なりに家で利き腕を使えない息子に思うところがあったのかもしれない。家の近所の公園で、生まれてはじめてキャッチボールをした。父に教えられた通り、いささかぎこちないフォームで軟式球を放った勇人のボールを受けて、父はまじまじと、グローブの中のボールと息子の顔を見比べた。何回か繰り返してコツを覚えて、狙ったところ投げられるようになると、これまで見たことのないような笑顔になって、勇人の頭に掌を置いた。
「勇人、お前、四年生になったら野球をやれ。絶対、才能あるぞ」
「うん、野球する!」
 それからは、夕飯の時間になっても戻らない父子を心配した母が公園に来るまで、二人でずっとボールを投げ続けた。四年生からは少年野球チームに入ってエースとなり、五年生の時には全国大会に出た。父は時々仕事を抜け出して、試合で投げる勇人の応援に来てくれた。
 今となっては誰に話すこともできない、遠い遠い思い出だ。だけど、そんなことだって確かにあったのだ。

「これは、本当にお前のことなんだな。塚原」
 開け放たれた部室の窓から、グラウンドで練習に励む選手達のかけ声が聞こえる。監督に部室に呼ばれる直前まで、勇人はグラウンドで守備練習をしていた。勇人が去った後のマウンドで、二番手投手の三沢がノックを受けている。
 運動部の部室にしては綺麗に整理されたテーブルに、夕刊紙が投げ出されている。テーブルを挟んで勇人と向かい合い、監督の宇田川は渋い顔をしている。
 チーム状態の良さは年が明けても変わらず、一年生の入部と三沢の成長もあり、むしろ秋よりもさらに状態がよかった。春季大会でシード権を獲得し、夏の大会の四回戦で県二強の一つ、常陽学園に勝利した。しかも、エースの完封と四番の本塁打のおまけつきでだ。帰りのバスの中で、選手の誰かが「俺達って、もしかしてすごくねぇ?」と言い出したが、それは勇人も同感だった。漠然とした憧れが今は明確な希望となって、選手全員の目の前で燦然と輝いている。
 甲子園でプレーをしたい。
「小五の時に、祖母ちゃん、いえ、祖母が亡くなって。その後、親父が荒れるようになって、母親が家を出て行って……、親父は何か月も帰ってこなくって、中学に入った後はほとんど、シニアの監督の家で生活していました」
 祖母がいなくなれば穏やかに暮らせる。そんな浅はかな望みはあまりにあっけなく打ち砕かれた。祖母の葬儀が終わってしばらくたつと、父が家で深酒をするようになった。深酒だけならばまだ良かったのだが、酔うと必ず勇人や母に対してくだを巻き、挙句の果てに手を上げる。殴る相手が大人の男に代わった分、これまでよりはるかに性質が悪かった。
「なんだその眼は。お前は親をバカにしているのか。来い、思い知らしてやる!」
 今でも目を瞑れば、父の怒鳴る声が耳奥で木霊する。勇人は父を尊敬してはいなかったが、さげすんでもいなかった。それがどうして親をバカにすることになるのだろう。今となってもよくわからない。
 父が荒れるようになってしばらくたつと、母は単身、家を出て行った。初めの頃は週に一回、父が仕事に出かけた隙に家に来て掃除や洗濯や食事の用意をしてくれに来たのだが、それも段々間遠くなり、やがては完全になくなった。中学の給食費が支払えず、冷蔵庫の中はいつも空っぽ、見かねたシニアの監督が自宅に住まわせてくれなかったら、児童相談所のお世話になっていたかもしれない。
「本当は長野の高校に行くはずだったんですけど……、練習中に親父が事件を起こしたって連絡が来て。母親は再婚していたんで、母親のところには行けなくて。茨城の伯父さん……養父が養子にしてくれて、茨城に来ました」
 シニアチームの監督夫妻は気のいい人物で、高校入学にあたって、正式に養子縁組しようと申し出てくれていた。その頃になると、勇人はもう周囲の大人に対して何ら期待を抱かないようになっていたから、監督夫妻を養父母として、正月休みだけ監督の家に帰ることができるのなら、それで構わないと思っていた。
 父が事件を起こしたのは、そんな矢先のことだった。
 父は白昼の繁華街で、幼い子供を連れた親子連れを狙って、やみくもに包丁で切りかかって行ったという。駆けつけた警官に取り押さえられて逮捕されたが、小学生が二人死亡し、通行人の何名かが負傷した。
 どうして、父があんな事件を起こしたのか。
 人に問われたこともあるし、自分で考えてみたこともあるが、勇人は父が事件を起こした時には、すでに一緒に暮らしていなかったので、当時の父の精神状態はわからない。いや、例え一緒に暮らしていたとしても、勇人と父が別の人間である以上、正確な答など出ないだろう。ただ一つ勇人にわかることがあるとすれば、勇人が祖母に左腕を縛られていたように、父は全身を縛られていたということだけだ。だから解けた途端に、生きていくことができなくなってしまったのだ。
「そうか。わかった。お前は何も気にするな。明日の試合に全力を尽くせ」
 力強く言い切りながらも、宇田川の視線は目の前の勇人ではなく、別のどこかに向けられていた。
 あんた、怖いんだね。自身の監督である男に向かって、心の内で呟いてみる。名門御堂実業の監督であった宇田川が茨城城東に赴任してきたのは、部内のいじめ問題の責任を取らされたからであることは、学校内でいわば公然の秘密だ。この上さらに、自分が監督するチームのエースが殺人犯の息子だと知って、怖くてたまらないのだろう。
「はい。全力を尽くします」
 明日には県二強の一つ、御堂実業との準々決勝が待っている。御堂実業のエース関はドラフト候補と目される右腕であり、点を取るのは極めて困難だ。それはすなわち、勇人が相手に点をやれないということでもある。
 準々決勝の後には準決勝、そして決勝に勝利した先に、憧れの場所がある。
 ――快進撃を続ける茨城城東のエースは、殺人犯の息子!
 視線を下げた先に、夕刊紙の見出しがある。これから、どうなるのだろう。茨城に来てはじめて、そんなことを思った。

 練習を終えて家に帰ると、気配を感じたクロが犬小屋から飛び出して来た。腹の部分に少し白い毛があるだけで後は全身真っ黒な日本犬で、もう子犬ではないのに、とにかく人懐っこい。今日もまた、勇人の足に飛びついて、真っ黒な尻尾をぱたぱたと振っている。
 昔から、動物は好きだった。長野の家は一軒家だったので、犬や猫を飼えないわけではなかったけれど、祖母が絶対に許さず、友達の家の飼い犬と遊んで帰った時には、獣臭いと怒鳴られて、頭から水を被せられて庭に半日放置された。それが今では、好きなだけ撫でまわせる上に、当の本人(犬)が遊んでくれとせがんでくるのだ。
 クロがいなければ、塚原家に馴染むにはきっともっと時間がかかっていたことだろう。普段は外で飼っているが、真冬と台風の日には家の中に入って、勇人のベッドの下で丸くなって寝ているクロを見ると、まるでその場所が自分の居場所であるかのように感じることができた。
 薄汚れた軟式球を庭に放ってやると、大喜びで追いかけて行く。口にくわえたボールを勇人の足元に置いて、つぶらな瞳が期待に輝いている。ねえ、投げてよ。ぼく、また取りにいくからさ。何度目かに軟式球を放り投げた時、ベランダの引き戸が開いて、居間から伯父が顔を出して来た。
「こいつは勇人とすっかり仲良しになったな」
「伯父さん」
 父親の事件の後、引き取り手のない勇人を呼び寄せてくれたのは、茨城に住む母の兄だった。決して声を荒げることなく諭すような物言いをする穏やかな人物で、最初にこの家で暮らし始めた時には、正直、少々面食らった。威圧的に殴られることもなければ、箸を左手で使っても叱られることのない生活など、生まれてこの方、一度もしたことがない。
 幼稚園までは交流があったが、その後は交際の耐えていた甥をどうして引き取ってくれたのか。その疑問は、クロがこの家にやってきた事情を知って氷解した。塚原隆文は慈愛の人なのだ。だから保健所で処分寸前の犬も、中学卒業と同時に社会の荒波に放り出されそうになった甥っ子も、等しく家に引き取ってくれる。
 茨城城東は一応、進学校であり、勇人の成績もそう悪くはないが、大学に進むつもりはなかった。既に宇田川と懇意の社会人野球の監督から、内々にオファーを受けている。社会人野球が不可能だった時のために、四国と北信越の独立リーグの入団テストの情報も集めている。
 もう少しだからさ。口にボールをくわえたクロの頭を撫でながら、心の中で呟く。もう少しで出て行くから、だからそれまでの間だけ、この家に置いておいてよ。伯父さん。
 ダイビングキッチンからは食欲をそそる匂いが漂っている。夏場は練習で遅くなるので、伯父と伯母は先に夕食を済ませて、後から勇人の分を温めなおしてくれる。伯母の美紗子がコンロの火を止めた時、リビングの電話が鳴った。
「はい、塚原でございます」
 途端、伯母の顔色が変わる。だてに何年も大人の顔色をうかがって生活して来たわけではない。ただその顔色の変化だけで、電話の意味も、同じ電話がかかってきたのが、これが初めてではないことも見て取れた。
「……伯父さん、ああいう電話、今日、何回目?」
 あともう少し。そんな願いがかなわないことを、勇人は痛いくらいに理解している。世間様だか世の中様だか知らないが、人は人殺しの息子が身近に存在していることを許してくれないものだ。クロと同じくらいの大きさの茶色の犬を飼っていた幼馴染の家族も、優しかったシニアチームの監督夫妻も、再婚して関西に住んでいる実の母親でさえ、勇人がそばにいることを拒んだ。
「気にするな、勇人。お前は何も悪いことはしていないんだからな」
 夜の片隅に重苦しい沈黙が落ちる。沈黙の片隅で、クロがわん、と大きく鳴いた。




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