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ラスト・イニング章 母親



 県営球場は、塚原家から車で四十分ほどの距離にある。塚原家には自家用車があるものの、休日は道が混むので、電車とバスを乗り継いだ。夫と二人で公共交通機関に乗ったのは、何年ぶりのことだろう。思い出せないくらいだ。
 球場の周囲は森林公園で囲まれていて、体育館やプールやパークゴルフの設備がある。春先は桜の綺麗な場所で、観光ガイドに記載されたりもしているのだが、子供のいない地元の人間が足を踏み入れる機会はほとんどない。美紗子自身、最後に来たのは七、八年前、雅子の息子のサッカー大会を応援に来た時以来だ。
 まるで夏そのものといわんばかりの晴天に、黙って立っていると、熱気で頭が痛くなってくる。球場の照明の向こう側で、森林公園の緑の木々の先端が、蜃気楼のようにゆらゆらと霞んでいる。熱中症予防の為にも、帽子が必要だったかもしれない。コンクリートの球場入口に掲げられた大看板には、二〇一四年夏季高校野球大会決勝戦と記されてあった。そのすぐ脇には、茨城城東高校対土浦南高校と書かれた、もう少し小さな看板が掲げられている。
 隆文と二人、チケット売り場に続く列に並んだ時、マイクロバスが止まり、そこからユニフォーム姿の選手達が下りて来た。何番目かに、大柄な選手と話しながら下りて来た少年が、美紗子と隆文を認めて目を丸くした。
「おじさん、おばさん」
 昨日の夜に夫と話し合って、実母の来訪は勇人には告げないことにした。大事な試合前のピッチャーの心をいたずらにかき乱したくないというよりは、隆文と美紗子の側が、昨日のやり取りを思い出したくなかったためだ。実際、思い出しただけで今でも腸が煮えくりそうになってくる。
 本当は、今日の応援のことは伝えたかったのだが、早朝はばたばたと忙しく、告げる前に少年は家を出て行ってしまったので、純粋に意外だったのだろう。一緒に下りて来た選手に二、三言何かを告げて、小走りに駆けよってくる。
「来てくれたんだ」
「応援に来たぞ、勇人。これに勝てば甲子園だな」
「うん。勝つよ、絶対に」
 茨城城東高校のユニフォームは、白地に黒のアンダーシャツ、襟元と首元に紺のラインが入っていて、胸元にアルファベットで校名が記されている。どちらかといえば童顔で、年齢より幼く見えがちな勇人だが、ユニフォームを着た姿は、テレビに出てくるプロ野球選手と同じくらい、一人前の野球選手に見えた。
 少年がユニフォームの背中に負った背番号一番は、美紗子がこの手で縫い付けたものだ。一年生の秋におずおずと差しだして来た背番号十番も、二年生の秋からつけているエースナンバーも、美紗子の手で、ユニフォームの背に縫い付けた。
 この子から野球を奪う権利が、一体、誰にあるのだというのだろう。何者にも、奪わせたりはしない。それは、彼よりも長く生きている大人としての義務であり責任だ。
「勇人君、今日、帰ったら、何が食べたい?」
 美紗子の言葉に、少年は目をしばたたいた。
「おばさん、今日は、腕によりをかけるから。何でも勇人君の食べたいものを作るから、言って」
 生んでもいなければ育ててもいない。彼は美紗子の子供ではないし、彼も美紗子と隆文を両親とは思っていないだろう。
 それでも、伝わるものはあるはずだ。例え他の誰が許さなくとも、彼の存在を認め、味方でいる人間がここにいると伝えることくらいは。
「じゃあ、ちらし寿司」
「え?」
「僕が茨城に来た日、おばさんが作ってくれたちらし寿司、すごく美味しかったから」
 照れたように笑った顔に、胸を衝かれた気持ちになる。はじめて塚原家にやってきた日に、美紗子が彼に出した料理だ。クロにじゃれつかれて、困ったように笑った勇人の顔を美紗子が今も忘れていないように、少年もまた、忘れてはいなかったのだ。
「おい、塚原!」
「ああ、もう行かなくちゃ。おじさん、おばさん。僕、今日、投げるから。――勝つよ、絶対に」
 最後にバスを下りてきた、監督と思しき男が遠くで声を張り上げる。名を呼ぶ声に、駆け出して行った背番号一番を見送りながら、美紗子は、傍らの夫の手を握った。

 生まれてはじめて足を踏み入れた野球場は、美紗子が想像していたより、はるかに熱い場所だった。響き渡る掛け声や太陽の光、そして何よりグラウンドを駆け巡る若い肉体が発する熱で、地面から燃え上がっているかのようにさえ感じる。
 テレビで見るものとはまるで違う。――これが野球か。
 美紗子と夫が観客席に足を踏み入れた時、観客席の一角に座っていた夫婦と思われる中年の男女が振り返ってこちらを見た。
「あら、もしかして、塚原君の親御さん?」
「あ、はい。あの……?」
 小柄な中年女性が、白い歯を見せて笑う。足元のアイスボックスの中にはペットボトルの飲み物が詰められていて、首にはタオル、手には団扇。相当、観戦慣れしているようだ。
「ああ、わたし達は大崎といいます。あそこの背番号四番の親です。うちのバカ息子がいつも言っているんですよ。塚原君みたいなすごいピッチャーがチームにいてくれるおかげで、決勝まで来られたって」
 大崎夫人が指さした先では、ベンチのすぐ前で、小柄な背番号四番がキャッチボールをしている。家に友人を連れて来たことない勇人だが、大崎の名前には記憶があった。確か同じクラスのはずで、去年の秋、盲腸で入院した後に一度、野球部の練習予定やらクラスのプリントやらを持って、自宅に訪ねて来てくれた。
 全校生徒すべて応援に駆け付けている相手チームとは違い、茨城城東側の応援席には、野球部員と思われる背番号のないユニフォームを着た少年たちと、選手の家族らしい中年の男女、それに一部の生徒達が自主的に応援に駆け付けているだけだった。この試合に勝てば甲子園出場が決まるのだ。本来ならばブラスバンドの応援も駆けつけるところだろうが、チアガールもトランペットの応援もない。
 勇人の実父が起こした事件について、夫妻が知らない訳はないだろう。だがあえてそのことを持ち出さない大崎夫妻の言動に、美紗子は好感を持った。これが子供ならば、事態の重さをわかっていないだけと言えるかもしれないが、彼らは子供ではない。社会の荒波の中で、大人と呼ばれるだけの年齢を生きて、子供を生み育て、そして今、我が子の野球を応援している。
 さあ、どうぞと勧められ、大崎夫妻の隣の席に腰を下ろした時、試合前の練習が終り、両チームの選手達がダッグアウトから飛び出してきた。一列で並んだ整列の中ほどに、背番号一番と四番が共に並んでいる。
 実況や解説がなくとも、ルールがおぼろげにしかわららなくとも、実際に球場で見る野球は、想像よりもはるかに面白いものだった。バットがボールを捉える時の金属音や、ボールがミットに飛び込む時の小気味よい音に混ざって、選手達のかけ声や応援の声が鳴り響く。緑が美しい芝生の外野はテレビで見るよりはるかに広く、よくぞまあ、あの広い場所で小さなボールを追えるものだと心の底から感心する。
 ――三番、ピッチャー、塚原君。
 一対一の同点で迎えた九回の表、球場のアナウンスが鳴り響いた時、茨城城東側の応援席はこれまでにない程、沸き立った。ツーアウトながら二塁に走者を置いて、勇人のバットが弾き返した白球は、飛びついた一塁手のグローブをすり抜けて、緑の芝生を転々と転がった。
「よし、よくやった、よく打ったぞ!勇人!」
 真っ黒に日焼けした背番号四番が、ホームベースに滑り込んでくる。美紗子の隣の席で、隆文が顔を真っ赤にして手を叩いていた。顔が赤いのは、先ほど、大崎氏からすすめられて空けた缶ビールの所為だ。酒があまり強くない隆文は、普段、付き合い以外ではほとんど酒を飲まない。
 隆文の声が聞こえたわけでもないのだろうが、二塁ベースに滑り込んで、勇人は、左手の拳を高々と空に突き上げた。美紗子も掌が痛くなるほど、手を打ち叩いていた。得点番の九回表に一が入り、茨城城東二―土浦南一と表示が切替わる。
「あなた、野球が好きだったのね」
「おれくらいの年齢の男で、野球が嫌いな奴なんているわけないさ。おれだって小学校の頃は少年野球チームにいたんだぞ」
 昨年の秋くらいから、地元紙のスポーツ欄に茨城城東の好投手塚原と書かれたりもしたので、実力があるのだろうとは思っていた。だがこうして球場で見てみると、勇人が素晴らしい野球選手であることが肌で実感できる。すぐ前の席で応援していた制服姿の女子生徒達が、抱き合って歓声をあげている。
 これほどおもしろいのであれば、もっと早くに来てみればよかった。しかし、そんな感慨は九回の裏にすぐに吹き飛んだ。九回裏のツーアウトから、土浦南のバッターが打った打球が、綺麗な放物線を描いて、ライトスタンドへと飛び込んだからだ。
 同点ホームランを打たれた直後、マウンド上で膝に手を突いたまま、勇人はしばらく顔を上げなかった。試合開始の直後から、この暑い中、たった一人、あの場所からボールを投げ続けて来たのだ。野球について詳しく知らなくとも、それがひどく消耗することであることくらいは、想像がつく。実際、七回の表の攻撃から、相手チームはピッチャーを背番号一番から八番に交代していた。傍らの夫の袖を握りしめると、美紗子の掌も、夫のシャツも汗でぐっしょりと濡れている。
「あなた、どうして監督は勇人を交代しないんですか」
「何バカいってるんだ。このチームのエースは勇人なんだぞ。監督は勇人となら心中するんだ」
 心中という言葉の重々しさに、思わずぎょっとする。しかしその物々しい言葉を、夫はひどく誇らしげに口にした。どうやら野球の世界において、心中とはこの投手にすべてを託すという意味に使われる、とても誇らしい単語であるらしい。
マウンド上の輪が解けて、勇人が再び投球動作を開始する。見るのが怖くて、思わず掌で顔を覆ってしまった。もう一度、勇人が同じようにホームランを打たれたら、そこで試合が終わることは、美紗子にもわかる。
 誰にも予測できない。一瞬先に未知がある。スポーツとはすべてそういうものなのかもしれないが、それはあまりに人生とよく似ている。九回の裏のツーアウト目を取った時、あと一人とコールをしていた周囲の観客達も、今はただ水を打ったように静まり返っている。
 見るのが怖い。見ていたくない。もしも再び、少年が膝に手をついて項垂れてしまったなら、かけるべき言葉を、美紗子は持ち合わせていない。
「駄目よ、奥さん」
 静かな声に顔を上げると、大崎夫人が微笑んでいた。
「息子さんが、がんばっているんだから、親の私たちは、何もできないけど、見届けなくちゃ」
 ただ、見ているだけ。どれほど、何かしてやりたいと思っても、観客席から伸ばした手はグランドには決して届かない。何一つ手出しはできず、それでもただ見守ることしかできないのだとしたら、親とは何と悲しい生き物なのだろう。
 鋭い金属音と同時に、ボールがグラウンドの黒土を跳ねる。
 相手チームの大歓声とブラスバンドの応援の中、小柄な背番号四番が軽快なステップで内野ゴロをさばく。九回裏のスリーアウト目を取ったピッチャーとセカンドがグラブでタッチをしながらベンチで引き上げて行く。
 顔を覆う為に持ち上げた掌を、膝の上で握りしめる。試合はまだ、終わってはいない。勇人が去った後のマウンドに、相手チームの背番号八番が駆け上って、マウンド上の土をスパイクで均し始めた。

 鈍い金属音と同時に、白球が空に打ち上げられた時、隆文、美紗子、大崎夫妻だけではなくその場にいたすべての人間が、腰を宙に浮かせて中腰になった。
 三対二、茨城城東一点リードで迎えた十回の裏、ツーアウト一塁。
 バッターの打球は、真夏の空に吸い込まれるように、一直線に打ちあがった。
 マウンドを駆け下りた背番号一番が空を指さし、マスクを脱ぎ捨てたキャッチャーが大きく腕を回す。
 見上げた空は、晴天だった。青空というより、蒼穹と呼んだ方がふさわしい空。敷き詰められた青い画布のような空には、雲の切れ端一つ、鳥の一羽たりとも見つからない。
 真夏の太陽の照り返しに輝きながら、白球が落下してくる。制服姿の女子生徒達が、互いの手を握りしめてグラウンドを見つめる姿は、まるで敬虔な信者が、神に向かって祈りを捧げている姿のように見えた。
 捕って、お願い、捕って。
「キャッチャー!」
どこかで、誰かが叫ぶ声がする。落下点でボールを待ち受ける背番号二番の大きな背中を、美紗子は固唾をのんで見守った。





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