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ラスト・イニング章 母親




 犬が好きという言葉に嘘はなかったらしく、勇人とクロはすぐに仲良しになった。毎朝六時前に起き出して、クロの散歩とエサやりを済ませてから学校に行く。野球部の練習でどんなに遅くなっても、庭先でひとしきりクロと遊んでからでないと、家の中に入らない。
 そうでもしなければ、家の中に入れなかったのかもしれない。こちらが痛ましく感じるほど、よく気を使う子供だった。食事の後には必ず、自分の分の食器を洗ってから自室に戻る。風呂掃除も家の草取りも、言われなくとも率先して行い、年末年始に郵便局の年賀状配達で稼いだアルバイト代は、全額家に入れた。
 高校二年の秋、遠征先の宿舎で盲腸で倒れて入院した時、慌てて駆けつけた美紗子に、医師は渋い顔で告げたものだった。
「腹膜炎を起こす前だからよかったようなものの、前から痛みがあったはずですよ。お母さん、何も気が付かなかったんですか」
 殺人犯の息子であるという事実が、少年にそこまでの我慢を強いるのか。二年以上共に暮らしても、美紗子は彼が羽目を外しているところを見たことがなければ、友達を家に呼んだこともない。
 今時、中卒ではまともな職を望めないから、少年には少年なりの計算もあるのかもしれない。それとも、高校に進んで野球を続けられたことに対する感謝の気持ち故なのか。どちらにせよ、美紗子にも血のつながった伯父である美紗子の夫にも、そして多分、他の大人の誰にも、心を許してはいない。
 だから勇人が所属する茨城城東野球部が快進撃を続け、甲子園出場が現実のものとなり始めた時、我がことにように嬉しかった。野球に関する知識に乏しくとも、高校球児にとって甲子園が目標であり、憧れの場所であることくらいはわかる。一つ一つ勝利を積み重ねるごとに、少年の表情が豊かになり、食事の量が増えて行く。テレビに映った勇人は真っ黒に日焼けした仲間たちと、家では見たこともない晴れやかな顔で笑っていた。
 いずれにせよ、少年が一人前の男となってこの家を出て行くまで、もうそう長い月日はないのだ。ならば、それまでの間、彼が思い切り野球をできる環境を守ろう。その思いは、勇人の父が殺人犯であると報道され、嫌がらせの電話が鳴っても、自宅に見知らぬ記者が訪ねてきても変わらなかった。
 そんなある日、勇人の実母が家に訪ねて来た。

 その日はちょうど準決勝の日で、勇人は朝から出かけていた。準々決勝の逆転サヨナラ勝ちは勇人にとってもかなりの衝撃だったらしく、帰ってきた後は珍しく興奮した面持ちで、夫と野球の話を熱く語り合っていた。茶碗と箸を片手に野球を語り合う少年と夫の姿は、まるで本当の親子のように微笑ましく見えた。
「いったい、どういうつもりなのよ!兄さん!」
 勇人の実母では、美紗子の夫の末の妹であり、夫とは年齢が一回り近く離れている。勇人の白い肌は母親譲りらしい。抜けるように肌が白く、すでに四十歳を過ぎているはずなのにシミ一つ見当たらない。
 白い肌に若い娘のような頬紅を塗り、イタリアの高級ブランドのスーツに身を包んでいた。靴もバックも百貨店でなければ売っていないような一流品である。勇人の父親と離婚後に再婚した彼女の夫は、どうやらかなり羽振りがよい人物であるようだ。
「どういうつもりとは、どういう意味だ?幸枝」
 勇人がこの家にやってきてからの二年間、一度も顔さえ見せなかった不義理を謝るでもなく、唐突にまくしたてた妹の言葉に、夫の顔が微かに歪む。美紗子の夫である塚原隆文は若いころから穏やかな人柄で、言い争うよりも、互いに納得するまで何時間もかけて話し合いを好む。結婚して二十年あまり、美紗子は夫が声を荒げて怒るところを、一度も見たことがない。
 血のつながった兄と妹の会話に割り込むのもどうかと思い、茶を出して引っ込もうとして、美紗子は、思わずその場に立ち止った。母親である女の口から、今、この家で暮らす少年の名前が零れ落ちたからだ。
「勇人ことよ。どうしてあの子に野球なんかやらせたの!」
 艶やかな唇から、金切り声が響いてくる。いかにも高価そうなバッグから低俗な夕刊紙が飛び出してきた。こんなことを報道することに、一体、何の意味や価値があるというのだろう。茨城城東高校のエースが無差別殺人犯の実子であると最初に暴いた夕刊紙だ。
 夕刊紙が最初に勇人を茨城城東のT投手と取り上げた後、いくつかの週刊誌が松本の殺傷事件の犯人の息子の記事を掲載した。後から出た記事にはどちらかといえば勇人に好意的で、悲運に負けずに甲子園を目指すエースという論調のものもあったが、はっきり言って有難迷惑だ。どうして黙って放っておいてくれないのだろう。
「今度、主人は市議に立候補しようとしているっていうのに、わたしの子供が殺人犯の息子だなんて知られたら、立候補さえできないかもしれない。ましてや甲子園なんて……兄さんだって、わたしが今、神戸にいることは知ってたでしょう?何で止めてくれなかったの!お願いだからやめさて、あの子を甲子園になんて来させないで!」
 あまりに身勝手な発言に、思わず手にしていた盆を取り落しそうになった。これほど裕福な暮らしをしていながら、父親が逮捕後に自殺し、行き場のなくなった勇人を、この女は引き取らなかった。勇人がこの家にやってきてからも、ただの一度たりとも、息子をよろしくお願いしますと電話してきたこともない。
 少年がこの家にやってきて間もない頃、夜更けに起き出して、家の外に出て行ったことがある。その手に金属バットが握られているのを見て、最初の何度かは怖くなってこっそり後を追っていた。その頃にはすでに勇人とクロは仲良しになっていたから、少年がバットであの気のいい犬を殴るとは思わなかったけれど、塀や窓ガラスの一枚や二枚は割られるのかと、心の底から心配になった。
 実際には、気配を感じて犬小屋から出て来たクロの頭を二、三回撫でたあと、街灯の明りも届かない庭先で、一時間以上、ただひたすら、バットを振っていた。あれは、負ってしまった重たい枷から目を逸らすため、野球にのめり込むしかない少年の背中ではなかったか。
「幸枝さん、あなた……本気で言っているんですか」
「義姉さんは黙っていてよ!親だって、自分の生活が大事なの。こんな気持ち、子供のいない人にわかるわけがないんだから」
 いったいこれまで何人の人間に、同じ台詞を浴びせられたことだろう。
 美紗子も夫も子供が好きで、本当は結婚してすぐにでも子供が欲しかった。それが三年以上しても授からず、夫婦共に病院で検査した結果、原因は美紗子の側にあった。片方の卵巣が排卵しておらず、もう片方の卵巣の機能も低下しているといわれ、不妊治療にも通ったが、結局、子供を授かることはできなかった。
 あの夫婦には子供がいないから。あなたたちは子どもがいないからわからないのよ。人は親になってはじめて一人前だから。妹にも両親にも、夫の両親からも、何度となくそう言われた。一番つらかったのは、教師である夫が、生徒の保護者に、子供のいない人間に大切な我が子を預けられないと言われた時だ。泣きながら離婚を訴える美紗子を一晩中抱きしめて、夫は絶対に別れないと言い張り続けた。
 はたして人の親になるということは、それほどまでに誇らしいことなのか。親になれない人間を見下し踏みつける権利を得るほどに。
「まあ、長野にいた時から、十年に一人の逸材とか言われてたから、いつかプロ野球選手にでもなると思ってるかもしれないけど、あんな男の子供なのよ?この先、何するかなんて知れたもんじゃないんだから。ねえ、これだけあれば、今まで分は足りるでしょう?足りなければ言って、いくらでも振り込むわ」
 夕刊紙に続いてハンドバックから出て来た白い封筒に、目が眩むほどの怒りを覚える。結婚前、信用金庫で働いていた美紗子には、それが何であるかすぐにわかった。封筒の厚みからみて二百枚、札束をハンドバックに押し込んで、この女は息子の養子先へやって来た。
 勇人が殺人犯の子供であると知られて以来の数日間、塚原家にはずいぶんと多くの電話が鳴って、かつてない程の数の手紙が届いた。いたずら電話や嫌がらせの類も多々あったが、夫妻の知り合いや友人からの、真摯でまじめな忠告もまた数が多かった。
 彼らの多くは、隆文と美紗子の身を案じ、勇人との養子縁組を解消すべきだと勧めてきた。勇人は人殺しの子供だ。例え本人に非はなくとも、少年の人生には、想像を絶する苦難と困難が待ち受けている。その苦難を、本来関係のない隆文夫妻が一緒に被ってやる義理などないのだから、もっと自分たちの人生を大事にしろ。余計な荷物を背負い込むな。そう言って寄越して来た夫の大学時代の友人の言葉は、それはそれで筋が通ってはいるのだろうとは思う。
 しかしまさかそんな言葉を、実の母親の口から聞くことになるとは思いもしなかった。
 あんな男の子供だから?何をするか知れたものじゃない?あの子はあんたの子供じゃないのか。
 親だって自分の生活が大切だと、幸枝は言った。幸枝の言う自分の生活の中に、腹を痛めて産んだ彼女の十七歳の息子は含まれていないのか。
 ぱしり、と鋭い音がして、幸枝が頬を抑えてその場に倒れ込んだ。これまで一言も発さず黙り込んでいた隆文が、肩で息をしながら立ち上がっている。あの穏やかな夫が実妹に手を上げたのだと美紗子が悟るまで、たっぷり三十秒は必要だった。
「帰れ、そしてもう二度とこの家に足を踏み入れるな」
「兄さん?何を言って……」
「勇人は私たちの息子だ。お前とはもう、何のかかわりもない。出て行け、もう二度と、勇人にも私たちの前にも顔を見せるな!」
 普段は大人しい兄の怒りに、呆気にとられたのは幸枝も同じだったらしい。やって来た時と同じくらいの唐突さで、幸枝は塚原宅を出て行った。もっとも、一度バックから出した札束を、きちんと仕舞って持って出たから、単に驚いただけで、夫の言葉が心に響いたわけではないだろう。
 幸枝が家を出て行った後も、夫はソファに腰を下ろしたまま、黙って宙を見つめていた。生徒にも美紗子にも、手を上げることなどしたことのない人だから、誰かをぶったことなど、彼にとっても、もしかしたら初めてだったのかもしれない。近づいていった美紗子が傍らに膝をつくと、ぽつりと、一言つぶやく。
「……すまない」
「あなた?」
「あれは……幸枝は、おれとは一回りも離れていて、小さい頃から親父もお袋も甘やかして育て過ぎたんだ。おれも父親みたいな感覚で、あいつのわがままを全部聞いてしまった。だから、いつまでも子供のままで、自分の子供を捨てて行くような女になってしまったんだ」
 幸枝の前夫、勇人の父親は、妻子に暴力を振るっていた。耐えかね、幸枝は家を出た。当時まだ小学生だった一人息子の勇人を置き去りにして。
 離婚した直後は両親が健在だったので、しばらく実家に身を寄せていた。妻子に手を上げる男と離婚するのは構わないが、子供を置いてきてどうする。一番に考えるべきは息子のことだろう。隆文は何度か実家まで出向いてそう告げたが、幸枝は頑として勇人を茨城に呼び寄せようとはしなかった。
 知らなかった。度重なる不妊治療で身も心も疲れ果てていた当時、夫の妹夫婦が離婚したことは聞いていたけれど、夫が妹に会いに実家に戻っていたことも、置き去りにされた甥っ子の存在に心を痛めていたことにさえ、気づいていなかった。
「あの事件の後に、後悔したよ。どうしてもっと早くに茨城に呼び寄せなかったんだって。だから、あの子をこの家に呼んだんだ。……お前には迷惑をかけて、本当にすまなかったと思っている」
「いえいえ、わたしはあなたに惚れ直しました。恰好よかったですよ、お父さん」
 わざとおどけて言って、テレビのリモコンを取り上げる。今日はNHKの教育チャンネルで、県大会の準決勝が中継されている。電源を入れたとたん、液晶画面に見慣れた少年の白い顔が大写しになった。
「さあ、八対六、茨城城東二点リードの八回の裏のマウンドに、背番号一番エースの塚原が上がりました」
 一回の表裏までテレビで見ていたのだが、今日の試合、勇人はベンチからのスタートで試合には出ていなかった。得点差が八対六となり、二点リードの八回の裏からエースの登板は、アナウンサーと解説者に言わせると、茨城城東の理想通りの展開らしい。
 正直に言うなら、今日の試合に勇人が出ていないことを確認した時、ほんの少し嫌な予感がした。三日前の夜、学校のガラスが割られて花火が投げ込まれる事件があった。茨城城東高校に寄せられた電話や手紙の数は、塚原家に届いたものの比ではないだろう。
「空振り三振、スリーアウト。この回からリリーフした茨城城東の塚原、八回の裏、ひたちなか栄の攻撃を三人で抑えました」
 今、この場所で起こったやり取りを知るはずもない。グラウンド上で、少年の身体はのびやかに躍動している。
 私たちの息子だ。つい先ほど、夫は彼をそう呼んだ。産んだから、育てたから、人は親になるわけではないのだ。男も女も、この子供の親であろうと心に誓った瞬間に、親としての一歩を踏み出すのだ。だからこそ、最後まで親にはなれない人間がいて、道の途中で親であることをやめてしまう人間も存在するのだろう。
 美紗子と夫が見つめる画面の中で、三人のバッターを打ち取ったピッチャーが小走りにダッグアウトに引き上げて行く。同じようにベンチに戻る少年たちとグローブでタッチをして、一言二言、言葉を交わしている。
 ふと、言葉が口を突いて出た。
「ねえあなた、明日、野球を見に行きましょう。わたしを野球に連れて行って下さいな」
 見てみたい。心の底からそう思った。少年の生きる場所、あの黒く光り輝くグラウンドを、自分の目で見てみたい、と。




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