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ラスト・イニング章 母親




「だから言ったでしょう、殺人犯の子供なんて引き取るものじゃないって、あの時、わたし、確かにそう言ったわよね、姉さん?」
 電話口で、妹の雅子が、早口にまくしたてる。二歳差の二人姉妹で、共に市内に嫁いだので、結婚後もそれなりに親しく付き合ってきた。
 父親が自殺し、母親に見捨てられた夫の甥を引き取る。そう告げた時、二つ年下の妹は、露骨に顔を歪めて見せたものだった。
「そりゃ、姉さんは知らないでしょうけど、十五歳の子供なんて、自分の子供でも何を考えているのかわからないんだから。自分で育ててもいないのに、そんな子と暮らせるわけがないでしょう」
 覚えている。結婚して二十年あまり、結局子供を授かることができなかった美紗子とは違い、雅子には娘と息子がいる。実際に腹を痛めて生んだ人間の言葉として、胸の内に刻み込んだ。
 それなりに親しくとは言っても、互いに家庭のある四十代の主婦が、そうそう自由に語り合う時間はない。それでも今日、雅子があえて電話をしてきたのは、美紗子が引き取って同じ家で暮らしている少年が、松本で殺傷事件を起こした犯人の息子であると、夕刊紙が暴露した所為だ。
「とにかく、困るのよ。うちの上の子はこれから推薦で大学受験なのに、殺人犯の息子が従兄弟なんて大学に知られたら……、姉さん、どうしてくれるの」
 本当に言いたかったのは、このことなのだろう。電話の声が涙声になる。幼い子供のころから、雅子は泣き虫で、困ったことがあるといつも美紗子にすがりついてきた。
 御堂実業一―茨城城東〇
 音を殺したテレビの画面下に、得点差とボールカウントが表示されている。以前は、野球のルールなどおぼろげにしか知らなかったが、今ではテレビで見ていて、ある程度試合の流れを把握できるようになっている。ここまで一点差で負けていた後攻の茨城城東高校が、九回の裏、二死満塁のチャンスを迎えているところだった。
「ちょっと、姉さん、聞いているの?」
 テレビのカメラが、ベンチから身を乗り出してグラウンドを見つめる選手と、その前でキャッチボールをしている背番号一番の選手を映し出している。
 雅子の言葉は耳に入らなかった。美紗子の目は、金属バットの弾き返されたボールが、グラウンドの黒土に跳ね返る光景を捉えていた。三塁走者に続いて二塁走者がホームベースに還ってくると、無音のテレビからでもわかるほど、グラウンド中が沸き立った。
 思わずリモコンのミュートボタンを解除する。
「茨城城東、逆転サヨナラで準決勝進出!九回一失点、投げぬきました、茨城城東エースの塚原」
 アナウンサーの叫び声の向こうで、一人の少年が、白い歯をこぼして笑っていた。

 その少年とはじめて会った日のことを、塚原美紗子は昨日のことのように覚えている。夫の妹の子供であり、里帰り出産で入院していた病院に、お祝いを持って会いに行った。
 美紗子が抱き上げた時、嬰児の彼は頬を緩ませうっすらと微笑んだ。後にそれが新生児微笑と呼ばれる条件反射だと知ったけれど、その頃はまだ、自分自身に子どもが授からないとは思っていなかったから、真っ白な産着に包まれた色の白い赤子を抱いて、いつの日か我が子を腕に抱く日を夢に見たものだった。
 だからと言うわけでもないが、それから十五年近くが経って、行き場のなくなった少年を夫が引き取ると決めた時、特に反対はしなかった。誕生から四、五年間は交流があり、正月には夫の実家でお年玉を手渡したりもしていたので、まるで馴染みがないわけでもない。
 しかし当然のことながら、十年ぶりに会った少年はかつての幼子とはまるで姿が違った。
「おばさん、お世話になります」
 スポーツバック一個を手に家にやってきた少年は、美紗子より十センチ近く背が高かった。声変りを終えた低い声が、完全に大人の男のものに聞こえる。長野で野球をやっていたと聞いたので、なんとなく、色の黒いたくましい体躯の少年を想像していたのだが、思っていたよりはるかに、色が白くて線が細い。後で知ったことだが、父親が起こした事件とその後の騒動で、当時、彼は五キロ近く体重が減っていたという。
「よく来たわね、勇人君。長野から疲れたでしょう?」
「いえ、大丈夫です」
  夫が教頭になった年に買った建売住宅の庭先で、すぐに会話が途切れた。美紗子の夫は地元中学の教師をしており、時々、生徒達を家に連れてきたりもしたから、ある程度子供に対する免疫はあったはずなのに、何と言葉をつないでいいのかわからない。
 こんな大きな子供とこの先、どう付き合って行ったらいいのだろう……。途方にくれた思いで、まだ冬の名残を残した三月の空を見上げた時、ワン!と大きく鳴いて、庭からクロが走り寄って来た。
 クロは三年前、近所の保健所で殺処分寸前に塚原家に引き取られた仔犬だった。別に人間に危害を加えたわけでもなんでもなく、無責任な飼い主に遺棄されて保健所に連れて行かれたのだ。多分、黒柴だろうと聞いてもらってきたのだが、半年もたたないうちに、柴犬にはありえない大きさに成長し、今は体重が十五キロ以上ある。日本犬は飼い難いという常識を覆すほど、人見知りをしない人懐こい犬である。
「あら、こら、ちょっと待ちなさい、クロ!」
 いつもは庭につないでいるのだが、今日に限って、鎖が外れていたらしい。立ち尽くした少年に飛びついて、盛んにしっぽを振っている。少年が軽く身をかがめると、薄い胸板に前足をかけて、頬や口元をぺろぺろと舐めつづけた。
「おいおい、クロ、くすぐったいよ」
 あ、笑った。クロに顔を舐められて、思わずといった感じで表情を崩した勇人を見て、胸の内で呟く。分厚い雲が割れて、そこから不意に眩い日差しを感じた時のようだ。大人になりかかった十五歳の少年の向こうに、かつての幼子の顔が見え隠れしている。
「勇人君、犬、好き?」
 クロの前足を胸の上から下して、手慣れた様子で、頭や背中をごしごしと撫でまわしている。ただでさえ人懐こいクロがたった数分で少年に懐いたらしく、芝生の上にごろりとひっくり返って腹を見せている。
「昔、少年野球のチームの友達の家で飼ってて……よく遊びに行って、散歩させてもらったりしてたんです」
 十五歳の少年が言う昔とは一体いつのことなのだろう。十五歳は大人ではないが子供でもない。親しい友人や同じチームの仲間、好きな女の子の一人もいたかもしれない。だがそれらすべてを切り捨てて、単身、少年はこの街にやって来るしかなかった。
 罪を犯して自殺した少年の父親の顔を、美紗子はおぼろげにしか覚えてない。ひょろりとした長身で、気の弱そうな顔をした男だったように思う。父親が犯した罪は決して許されることでないが、それは父親の罪であって、少年の罪ではない。
「おじさん、今日は五時には帰って来るから。帰ってきたら、夕食はちらし寿司にしようと思うだけど、お魚、大丈夫?」
「はい、ありがとうございます」
 少年が玄関を開けて家の中に入ると、クロが名残惜しそうに鳴いて、尻尾を数回振った。




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