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ラスト・イニング第三章 記者




 茨城日報の看板の為か、はたまた一度目の取材態度がよかったのか、二度目の取材は監督の監視抜きで許可が下りた。準々決勝で御堂実業を逆転サヨナラで下したチームには活気があり、練習にも熱が入っている。一馬の経験上、こういった劇的な勝ち方をしたチームは勢いに乗るものだ。これは本当にこの勢いのまま甲子園まで行ってしまうかもしれない。
 金井を道づれに、練習中のグラウンドを回って、選手達から当たり障りのないコメントも取った。単に初めての甲子園を目指す進学校を書くだけならば十分な量の情報を得たが、今回の取材のそもそもの目的はそこにはない。グラウンドを経由してブルペンに向かって、そこではじめて、宇田川の意図を悟った。
 ブルペンで投げているのは大柄な右投手一人だけで、塚原勇人の姿はそこにはない。どうやら、あらかじめエースを通常練習から外しておいて、その上で週刊茨城の取材を受け入れたらしい。さすがは、名門御堂実業で監督を務めただけのことはある。一筋縄ではいきそうにない。
 室内練習場のベンチに腰を掛けて、大きく息を吐き出してみる。
 グラウンドは他の部活と共有で、室内練習場にも十分な広さがあるとは言い難い。他県から有力な選手を取って来ることのできない状況で、よくここまで勝ち上がってきたものだ。過去の試合データを見ても、明らかに相手が格下だった一回戦、二回戦はともかく、三回戦以降はすべて接戦だ。昨日の準々決勝など、九回の裏の二死まで負けていた。
 そんなことをつらつらと考えながら、三十分近くは経っただろうか。室内練習場の入口に人影が落ちる。どうやら取材が来ている間は、ロードワークに出ていたらしい。一緒に来ていた金井を社有車に乗せて先に帰らせたので、取材はもう終わったと判断したのだろう。汗だくの顔をして、首からタオルを下げた少年が立っている。
「塚原勇人君だろ」
「……はい、そうです」
 ここで、塚原勇人以外の誰かだと答えられたなら、どれほどいいだろう。まるでそんな思いが伝わってくるような口ぶりだった。気持ちはわからなくもない。あの夕刊紙が出て以来、彼の周囲の環境は激変したことだろう。チームの期待を一身に背負ったエースから、忌むべき人殺しの子供に。世間の評価など、掌を返すより早くひっくり返る。
「昨日の準々決勝、テレビで見てたよ。ナイスピッチングだったね」
「……ありがとうございます」
「おれも十年前に、常陽学園で甲子園に行ったことがあるんだ。七番ショート渡来。どこかで聞いたことないかい?」
「僕はその頃、茨城にはいなかったので……」
 その頃、彼は長野県で、後に人を殺して自殺する父親と共に暮らしていた。まだ長野にまでは取材に行っていないが、少年野球時代から、地元では名の知られた存在だったらしい。小学五年の時に、リトルチームのエースとして全国大会に出場している。
 薄曇りの天候とはいえ、気温は三十度を越え、今日もまたかなり暑い。少年は一馬に背を向けて、備え付けのアイスボックスの中からスポーツドリンクを取り出している。しわの寄った練習着の背中に向け、声をかける。
「君は、自分がどうして生きているか考えたことはあるかい?」
 わかっている。十七歳の少年に対して、これはあまりにも残酷な問いかけだ。だが世間が、読者が、本当に知りたいのはこのことなのだ。
 無差別殺人犯の血を引いた少年。彼は何を思い、何を抱えて今を生きているか。
 人殺しの子供は、この先、どんな人生を送って行くのだろう。
「お父さんが罪を犯した時に、他所の子供ではなく、自分が殺されていたらよかったと思わなかったかい。いや、いっそ、お父さんが自殺した時に、一緒に死んでいた方がよかったんじゃないかと――」
 思ったことはないのか。最後まで言う前に、背後から襟首を掴まれ殴られた。まったく気配を感じていなかったので、固い拳を頬に受け、板張りの床の上にまともに転がった。
「お前、なんてこと言うんだ!謝れ!塚原に謝れ!」
 叫んでいるのは、茨城城東野球部主将にして四番、正捕手の柳健也だった。地元中学の軟式野球出身で、中学まではそれほど名の知られた選手ではなかったが、今では県内でも名の通ったスラッガーに成長している。エースの塚原以上に、茨城城東の攻守の要だ。
 確かに、迂闊ではあった。ピッチャーが一人でブルペンにいたところで、キャッチボールも投球練習もできはしない。塚原勇人がここにいるということは、キャッチャーが後からやってくる予定だと把握しておくべきだった。
 一発殴ったくらいでは怒りが収まりきらないらしい。顔を真っ赤にして再び拳を握りしめた少年を、背後から誰かが羽交い絞めにしている。他の誰であるわけもない。塚原勇人その人だ。
「やめろ、柳君!」
「離せよ、塚原!こんな奴!」
「駄目だ、ここで暴力事件なんか起こしたら、出場停止になる!」
 至極冷静でまっとうな指摘に、ようやく柳少年の顔から血の気が引いた。のろとのろと振り上げた拳を下ろして、自身のチームのエースの顔を、まるではじめて見るかのようにしげしげと眺めている。
「大丈夫だから。僕なら平気だから。こんなこと、慣れてるから」
 塚原勇人は、笑っていた。
 無論、笑いたいから笑っているわけではない。その証拠に、覗き込んだ目の奥は真っ暗で、釣り上げた口元の皮膚はかさかさに乾き切っていた。
 他にもう、どうすることもできないから、笑っているのだ。僕は大丈夫だと、周囲の人間に、他でもない自分自身に言い聞かせる為だけに、笑っているのだ。
 他にどうすることもできなくて笑っていたのに、家の電話が鳴りだした。
 ――県民期待の全国制覇を台無しにしたショートが、反省もせずに毎日遊び歩いている。
 出し抜けに泣けてきそうになって、グラウンド脇の水道で、頭から水を被った。最近の子供はきっと、殴り合いの喧嘩などしたことがないのだろう。まったく加減なく殴られて、口の中で奥歯がぐらぐらとしている。
 出しっぱなしの蛇口から、冷水をざばざばと浴びて顔を上げた時、目の前にタオルを差し出された。監督の宇田川が渋い顔をして、その場に立っている。
「心配しなくとも、暴力事件発生だなんて、書きませんよ」
 それでなくとも、こちらが敢えて怒らせるようなことを言ったのだ。差し出されたタオルを受け取ると、野球部監督は何も言わずに頭を下げた。自分が高校生の時には感じなかったが、高校野球の監督というのも、なかなか気苦労の多い商売だ。よくもまあ、こんな厄介な仕事を何十年もやる人間がいるものだと、心の底から感心する。
「どうして、おれに取材を許可したんですか」
 顔を拭いた白いタオルに、うっすら血の痕が残っている。この分では、夜には腫れてくるかもしれない。
 まともに問いかけられて、宇田川の視線がわずかに揺らいだ。あの常陽学園のショートだから。そんな答が返ってくるのだろうと思った。自分が世間から後ろ指を指された経験者なら、殺人犯の息子のエースを興味本位には取り上げないだろう。恐らく、そんなところだったのだろうと。
 だが、日に焼けた頬を人差し指でかきながら、いかつい顔の中年監督が口にしたのは、実に意外な台詞だった。
「俺はラーメンが好きなんだ。仕事もあるし、なかなか食べ歩きには行けないけどな」
 週刊茨城で、少し前まで一馬が担当していた茨城ラーメン紀行だ。最初に名刺を差し出した時、宇田川はかすかに眉をしかめて一馬を見た。あの時、この男の脳裏に浮かんでいたのは、十年前の夏の甲子園ではなく、一馬の書いたラーメンの記事だったのか。
「ああいう丁寧な仕事をする記者の取材なら、選手達にもいい記念になるかと思ったんだ。なあ、あのラーメン紀行、続きはもう出ないのか?」
 その丁寧な仕事をする記者が、チームの大事なエースを相手に、興味本位の取材をするとは思わなかったのか。それともこれは牽制なのか。まさかあの週刊茨城さんが、こちらの信頼を裏切るような真似をしやしませんよね、と。
 わからない。ただ確実に一つ言えることがあるとしたら、この監督が本当に茨城ラーメン紀行の愛読者であるということだけだ。何しろ茨城ラーメン紀行が、先週号でめでたく最終回を迎えたことを知っているのだから。
 殴られた左側の頬が痛い。痛みに顔を歪めながら、一馬は、何故か、腹を抱えて笑い出したくなった。

 二〇一四年夏の県大会決勝戦は、土浦南高校対茨城城東高校の一戦となった。共に試合前はあまり評判が高くなかった、ダークホース同士の戦いである。プレーボールの直前、一馬が県営野球場の観客席に足を踏み入れた時、客席に座っていた老人の一人が顔を上げて、こちらを見た。
「一馬じゃないか。久しぶりだな」
「城内監督、いらしてたんですか。……これまで、ご無沙汰して申し訳ありませんでした」
「そんなことはどうでもいい。だが、お前、記者席でなくていいのか?」
 元常陽学園野球部監督の城内昭三は、甲子園で通算四十九勝を上げ、茨城県内だけではなく、県外の高校野球関係者からも名監督と呼ばれている。
 高校卒業以来まったく縁が切れていたのだが、元チームメイトの誰かから、一馬が週刊茨城に就職したと聞いていたのかもしれない。小首を傾げる姿がやけに年寄臭く見える。浅黒く日焼けした顔全を覆った細かな皺は、十年前には見つけられなかったものだ。
「おれは、スポーツ記者じゃありませんから」
 週刊茨城今週号の発売日はちょうど決勝戦の当日で、一馬はこれまでの取材を基に、茨城城東対土浦南の一戦を分析した。茨城城東の取材後に、土浦南高校にも取材を申し入れ、甲子園経験者の目で、両チームの戦力を冷静に分析した。
 塚原勇人については、茨城城東の主戦投手としてしか触れなかった。一馬が差し出した原稿を読んで、編集長が何を思ったかは知れない。単に他の記事を載せるには時間が足りなかっただけなのかもしれないが、一馬の原稿はそのまま今週号の週刊茨城に載った。
 塚原勇人の生い立ちを知らない人間が読んだなら、単なる高校野球の記事にしか見えないだろう。だが、県内の高校野球に興味がある人間ならば、決勝まで上がってきたチームのエースにまるわる今回の騒動を知らないわけがない。結果的に――あくまでも結果論ではあるが、週刊茨城は、他紙とは一線を画した報道をしたことになる。
 先攻の茨城城東高校の攻撃が三者凡退に終わり、茨城城東の選手達がグラウンドに散る。その一番高いところに、細身の左投手がゆっくりと登って行く。真っ白なユニフォームの背中に、黒文字の背番号一番が映えている。
 今思えば、城内に対してあの日のエラーをきちんと謝罪したことはなかったように思う。ユニフォームを脱ぐと決めた最後の年、誰よりも全国制覇を望んでいたのは、今ここにいる老人のはずだ。十年越しの謝罪に、元監督は静かに首を振った。
「わしは、全国制覇したいと思ったことはないぞ。ただ、お前たちと一試合でも長く、試合がしたいとは思っていたがな。あの年のチームは本当のいいチームだった。実力者ぞろいのくせに、妙に気のいい奴らばかりだったしな。みんな、とにかく野球が好きだった。そうは思わんか、一馬」
 部員数二百名近くにもなる野球部となると、妬みや嫉妬によるいじめや諍いも当然起こりうる。実際、一馬の一つ上の学年までは、表ざたにならない小さな問題が多発していたらしい。しかし一馬たち三年生が最上学年になった年だけは、何の問題も起きなかった。ドラフトでプロ球団に上位指名されたものの、故障で自由契約になって実家の製鉄所を継いだ元エースも、在京球団の一軍と二軍を今も忙しく行ったり来たりしている元四番打者も、甲子園で逆転サヨナラエラーを犯した遊撃手を責めたりはしなかった。
「こないだ、三浦が結婚のあいさつに来てな。嫁さんはなんとイギリス人だそうだ。金髪碧眼だぞ。たまには、連絡をしてやれ。お前から連絡がないと寂しがっておったわ」
 一回の裏の土浦南の攻撃も三者凡退で終わり、茨城城東の選手達が意気揚々とベンチに引き揚げて行く。
「監督、あのピッチャー、どう思います?」
「あの子は本物のピッチャーだな。あの若造が入れあげるのもわかる」
 百戦錬磨の名将にいわせると、四十代でそこそこに実績のある中年監督でさえ、若造扱いである。しかしそんな言葉よりも、城内が塚原勇人を称した「本物のピッチャー」という言葉の方が気になった。
「本物のピッチャー?」
「まれにおるんじゃよ。投げる為だけに、この世に生まれて来たみたいな人間がな。自分自身だけでなく、出会った者の運命まで巻き込んでしまう、そんなピッチャーのことだ。……本人にとって、それが幸運なのか不運なのかはわからんが」
 ――いいピッチャーでしょう。試合になれば塚原のボールはもっと速い。
 プレハブ小屋のようなブルペンで、エースを見つめる宇田川の目は明らかに誇らしげだった。これまでの疲れがあるのか、今日の試合では変化球の切れがよくないようだが、土浦南のバッターは塚原のストレートには対応しきれていない。決勝戦まで上がってきたチームが、完全に振り遅れている。それだけ、塚原勇人の真っ直ぐには威力がある。
 あれだけのボールだ。魅せられる人間の数は多いだろう。あのボールがあるから決勝戦まで勝ち残り、そして今、チームは甲子園に手の届く場所にいる。
 勝てば甲子園を手にするマウンド上で、彼は今、自分自身に与えられた能力を、どのように感じているのだろう。
「監督、実はおれも……、あのピッチャーを初めて見た時、野球がしたいと思いました」
 自分自身だけではなく、他人の運命をも巻き込んでしまうほどの才能。はじめて塚原勇人を見た時、心の底からバッターボックスに立ちたいと思った。野球を捨てて――いや、野球から逃げだして十年、一馬にとってそれは久しく忘れていた衝迫だった。
 あの時、思わず零れたため息は、一馬自身の中で凍っていた何かが溶けだす音だったのだ。
 告げた言葉に、かつての名将は、子供のように顔を綻ばせた。
「そうか一馬。お前もあのピッチャーに巻き込まれたクチか」
 試合は四回の表に土浦南が一点を先制し、一対〇の得点差で前半五回が終了していた。とはいえ、茨城城東も四回と五回に得点圏まで走者を進め、土浦南の投手に完全に抑え込まれているわけではない。
 互いにここまでノーエラーで、引き締まったよい試合だ。さすがに決勝戦までくるチーム同士ともなると、見ごたえのある試合をする。かつての監督と選手が見下ろす先で、グラウンド整備を終えた六回の表の守備に、土浦南の選手達が散って行った。

 十回の表、三対二、茨城城東が一点リードの二死一塁。
 土浦南の四番打者の打球は、鈍い金属音と共に、空高く打ちあがった。
 マスクを飛ばした茨城城東のキャッチャーが、右手を大きく回している。客席から悲鳴と歓声が迸る。マウンドを駆け下りたピッチャーが頭上を指さし、声を張り上げている。
 羨ましいな。
 声にならない声でそう呟く。十年前の夏、常陽学園が甲子園出場を決めた時、最後のアウトはショートフライだった。忘れたふりをしていただけで、今でも本当は覚えている。最後のアウトが自分のグラブに落ちてきた瞬間の歓喜と、誇らしさは、一馬がもう二度と経験できないものだ。
「キャッチャー!」
 どこかで、誰かが叫ぶ声がする。空へ向かって掲げられたキャッチャーミットに、今、ボールが落ちてくる。




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