×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。


ラスト・イニング第二章 キャッチャー




 エースの父親が殺人犯だと報道されて、職員室に抗議の電話が鳴り響こうが、練習中にこれまで見たことのなかった記者連中の顔が見え隠れしようが、健也を含む選手達に、それほど動揺はなかった。何よりも、今は目の前に甲子園がぶら下がっている。準々決勝で、御堂実業を逆転サヨナラで下して、準決勝では、今大会屈指の強力打線相手に控え投手の三沢を先発させて、九対七で勝利した。
 準決勝のスタメンに塚原の名前がなかった時には、正直、嫌な予感がした。三沢の先発はあらかじめ決めてあったとはいえ、三番に塚原がいるといないとでは打線の重みと繋がりが違う。監督は試合を捨てたのかと本気で心配になった。
 大人と呼ばれる人間が、自分自身の面子と体面を守るために、どれほど愚かなことをするかを知っている。自室の鴨井からベルトで首を吊った剛志の死因は、公式には病死だ。母は健也の前で、亡くなった剛志君と言っても、自殺した剛志君とは絶対に言わない。
 言葉を取り繕うことに、一体何の意味があるというのだろう。最初に鴨井からぶら下がった剛志を見つけたのは、剛志の母親と健也自身だ。今も瞼の裏に焼き付いているというのに。
 結局、三沢は準決勝の七回を投げぬき、八、九回の二イニングを塚原がリリーフで抑えた。おかげで万全とまでは言えなくともある程度余裕をもって、エースを決勝戦のマウンドに送り出せる。
  決勝の朝は晴天だった。これまでの雨が嘘のように空一面が晴れ渡り、雲の欠片一つ見当たらない。集合時間の午前七時前には、学校のグラウンドにすべての選手が集まっていた。いつもの朝練ならば眠そうに欠伸をかみ殺す部員達も、今日だけは皆、真剣な面持ちで、監督の言葉に耳を傾けている。
「土浦南はいいチームだ。一、二番の出塁率が高くて、クリーンナップの得点力が高い。下位打線も打率は低いが粘っこいな。どこかの新聞が似たようなチームだと書いていたが、その通り。攻撃のパターンはうちと似ている。だとしたら、バッテリー、やることはわかっているな」
 宇田川の顔が、キャプテンとして最前列に立つ健也を見る。
「はい。一、二番を出塁させず、三番と四番を分断する。下位には遊び球なしで、球数をできるだけ節約する」
「そうだ、自分らがやられて嫌なことをやり返せばいいんだ。これほど簡単なことはないだろう、お前ら?」
 監督の軽口に下級生の何人かがくすりと笑った。しかしすぐに表情を引き締め、宇田川は声を張り上げる。
「が、あのチームから点を取るのは、厄介だ。ここまで六試合でエラー数が三つ。つまりは二試合で一つあるかないかだから、内外野のエラーはまず期待できない。おまけにあちらには看板投手が二人いる。右の里崎に左の大河原、この二人の継投でずっと勝ち上がってきた。何とまあ……いや、とにかく決勝戦の相手にふさわしい、実にいいチームだ」
 何とまあ、羨ましい。監督の一番近くにいる健也には、宇田川が飲み込んだセリフの一端が読み取れた。茨城城東の二番手投手である三沢は、昨日の試合で七回百三十球以上を放っている。エース塚原が相手打線に掴まれば、試合の行末はそこで決まる。
 捕まえさせやしねぇよ。
 胸の内でうそぶく。宇田川の言う通り、確かに悪いチームではないが、破壊力のある打線ではない。いや、どれほどのパワーを秘めた打線であっても、塚原のボールであればねじ伏せられる。その力を俺が引き出して見せる。
 簡単なミーティングを終え、宇田川がベンチから立ち上がった。何か意見のある奴はいるか。毎試合前、球場へ向かう直前、こうしてグラウンドのベンチ前でミーティングを行い、宇田川はそう言って締めくくった。本日挙手をしたのはただ一人、背番号一番の選手だけだった。
「どうした塚原、言ってみろ」
「はい」
 何かをかみしめるように唇を真一文字に結んで、足元に置いたスポーツバックから、おもむろに白い封筒を取り出す。その内容を推測して、一瞬、健也の背筋が凍り付いた。
「これ……退部届です。今日の日にちを入れてあります」
 総勢二十五名あまりの部員達がざわめく。宇田川は腕組みをしたまま、エースの言葉の続きを待っている。
「今日の試合は投げます。三沢は昨日、百三十球以上放っているから、今日投げるのは無理でしょう。でも、今日の試合に勝っても負けても、僕は野球部を辞めます。……だからほかのみんなは、甲子園に連れて行ってやって下さい」
 監督の胸元に退部届の入った封筒を突き付けて、その場に頭を下げると、背中の背番号一番がグラウンドと平行になる。あいつが辞めれば、甲子園に行けるだろうか。どこかで、誰かがつぶやく声がする。
 塚原の実父にまつわる報道以来、茨城城東野球部の周囲は急に騒がしくなった。被害者遺族の心情を思えば、殺人犯のエースが甲子園で活躍していいのだろうか。そんな声を聞くたびに、もしかしたら、甲子園行きが決まっても辞退しなければならないかもしれないと不安になった。そんな不安を選手達みなが抱えていたのだ。
 だが、そんなことが許されていいのか。今日の試合、塚原をピッチャーとして勝ち残って、エースを置き去りにしてほかの選手だけで、甲子園に行く。そんなことが、本当に?
 それは駄目だと健也は思った。そんなことが許されていいはずがない。四月上旬が誕生日の健也は、チーム内で誰よりも早く十八歳になる。十八歳が大人か子供かなんてことは知らないけれど、この先に続く人生に、これ以上の後悔を抱えて生きるのはまっぴらだった。
 剛志を自殺に追い込んだものが何であれ、そのうちの一つが他でもない健也自身であることは自覚していた。中学に入ると、二歳の年の差さえ飛び越えて、健也の野球の実力はあきらかに剛志を上回った。いつも自分の後ろを追いかけてきた従弟に追い抜かれたと知った時、剛志の心を過ったのは絶望ではなかったか。
 ――健也、お前は野球をやめるなよ。
 もしもあの時グラブを掲げ、昔のように、キャッチボールをしようと誘っていたならば。今もまだ、生きていてくれただろうか。
「逃げるのか?」
 しばし無言を通していた宇田川が、低い声でうめく。これまで誰も聞いたことのない、どすの利いた声に、塚原が垂れていた首を上げた。
「一点差の九回裏ツーアウト満塁で、自分からマウンドを降りるようなピッチャーに、俺は今までエースナンバーをくれてやっていたのかよ!」
 おもむろに胸倉を掴まれて、身長百七十センチ中盤で、体重が六十キロ少々しかない塚原の身体が半ば宙に浮く。巷には今でも鉄拳制裁を行う高校野球指導者がいるというけれど、宇田川が選手達に手を上げたことは、これまで一度たりともなかった。選手に対し、怒って見せることはあっても、芯から怒ったことなどなかった監督の顔が、今、本気の怒りで満ち溢れている。はじめて目にした、大人の男の本気の怒りに、身がすくむ。
 だがその次の瞬間、信じられないことが起こった。胸倉を掴まれていた塚原が宇田川の手を振り切って、逆に掴みかかって行ったのだ。体格差は歴然でも、塚原の握力は校内の体力測定で一位を記録したこともある。たたらを踏んだ宇田川の身体が、一歩、二歩、その場を後ずさった。
「おれだって、甲子園に行きたいに決まってるだろう!」
 まるで血を吐くような叫び声だった。聞いている方が耳をふさぎたくなるほどの悲痛な声を、健也はこの時、生まれてはじめて耳にした。いつだって大人しく、口数もなく、部員達の後ろでにこにこ笑っていた少年の中には、これだけの激情と悲痛が覆い隠されていたのだ。
「だけどおれがいたら駄目なんだよ!殺人犯の息子がエースの学校が甲子園なんて、行けるわけがない!おれがいたら、ほかのみんなまで、甲子園に行けなくなるんだ!」
 一息に言い切って、肩で荒く息をしている。誰も何も答えなかった。宇田川でさえ、感情を抑えた眼差しで、エースを見下ろしている。
 遠くでカラスの鳴く声がする。他の部活の朝練が始まったのかもしれない。グラウンドをホイッスルの音が駆け抜けた時、人の輪から、意外な人物が声を上げた。
「駄目ですよ、塚原さん」
 二年生の三沢淳史は、茨城城東の二番手ピッチャーである。最近の下級生は発育がよく、塚原より十センチほど背が高く、体重は十キロ以上重くて、そして、球速は十キロ以上遅い。
 右サイドスローから投げ込む百三十キロ代のボールにはなかなか威力があるのだが、如何せんスタミナが足りず、回をまたぐとがくんと球威が落ちる。決して悪いピッチャーではないが、投手としての格は塚原よりは確実に一ランク落ちる。
 準決勝で自己最長の七回を投げ切った二番手ピッチャーは、体格の割に幼さの残る顔を、くしゃくしゃに歪めて見せた。
「決勝も、甲子園も、先発はエースでないと。それで十点リードしたら、おれ、投げるんで、その時に代わって下さい」
 限りなく自己本位の都合のよい発言でも、それが心からの本音であると嫌味には聞こえない。ずっと息を詰めていたのだろう。健也のすぐとなりにいた副キャプテンの梵が、息を吐き出しながら、無理だろ……と呟いた。
「うちの打線で、甲子園来るようなとこのピッチャーから十点取るって……ありえないだろ」
「いやいや、十点リードだぜ。塚原だって二、三点くらいは取られるだろうから、十五点は取らないとなんない。どんだけ、きついノルマよ?」
 ショートの沖原とセカンドの大崎が、絶妙のタイミングでおどけて見せる。共に小柄で瞬足、鉄壁の守備を誇る二遊間コンビであり、プライベートでも仲が良い。彼らが完成させるダブルプレーは、額に入れて飾っておきたくなるくらいに美しい。
「この大馬鹿野郎が」
 ユニフォームのポケットに手を突っ込んで、宇田川が吐き捨てる。どうも、今日の監督は柄が悪い。
「殺人犯の息子がエースの学校だと?ガキの分際で、この世の不幸をすべて背負いこんだ気になりやがって。このチームの監督は俺だ。お前の背番号が一番だろうが二十番だろうが、決めるのは俺だ。お前をどの場面で投げさすかは、俺が決める。文句のある奴は、俺に言え」
 言い切った宇田川と目があった。ここはキャプテンが決めるところだと、促されているらしいが、気の利いたセリフなど、そう簡単に出てはこない。
「どうしたんですか、監督。なんか今日、めちゃくちゃ格好いいすっよ」
「阿呆!俺はもともと恰好いいんだ!」
 一瞬、呆けたように間が空いて、それから野球部員全員がどっと笑い崩れた。よほどおかしかったのか、梵など、腹まで抱えて笑っている。先ほどのホイッスルはサッカー部の集合の合図だったらしく、通りかかりのサッカー部員が、ぎょっとした顔をして通り過ぎて行く。
 しばし、あっけにとられた顔をしてチームメイトを眺めていた塚原の顔が、再び下を向いたまま上がらなくなった。首を垂れて許しを乞うているのではない。多分、泣き出しそうになるのを、必死で堪えているのだ。
 こんなところで泣くんじゃねぇぞ。声には出さずに胸の内で呟いてみる。試合に出発する前のグラウンドで、エースが泣き出すなんてかなり、恥ずかしいからな。
 泣くのは試合が終わってからだ。勝つにしろ、負けるにしろ。

 二対一と一点をリードした九回の裏、土浦南の八番打者のボールがライトスタンドに突き刺さった時、マスクの下で、健也は軽く舌を出した。やっちまった……とあえて口に出して呟いてみる。ピッチャーの調子がよい時ほど、キャッチャーは調子にのってはならない。野球部に入部して以来、宇田川に何度も何度も言い聞かせられて来たというのに、肝心かなめの瞬間に抜けて落ちてしまった。
 一八.四四メートル先にマウンドで、背番号一番が膝に手を突いてうなだれている。一点リードの九回裏二死無走者から同点本塁打を打たれたのだから無理もないのだが、まだ九回の裏ツーアウトだ。塚原には何としても立ち直って、残りのアウトを取ってもらわないとならない。
「僕、ここいいていいのかな」
 一回裏の攻撃が始まる直前、マウンド上でのサインの確認中に、塚原がふと、呟いた。ほとんど囁きに近い呟きだったので、健也以外の他の誰にも聞こえなかっただろう。甲子園がかかった決勝戦のマウンドで、エースが呟く言葉ではない。本人も無意識だったのかもしれない。呟いた後で、しまった、という顔をして首を振っていた。いていいも何もない。いてくれないと困る。間違いなく、茨城城東野球部員は全員が皆そう思っている。だがこの瞬間、健也は塚原の抱いている傷の深さを垣間見た。
 古傷ではない。生傷だ。茨城城東エースの薄皮を一枚めくれば、今も傷口から血が噴き出している。
 これまで誰にも言ったことはないが、健也はひそかに、バッターボックスからマウンドまで一八.四四メートルの距離は、キャッチャーの為にあるのではないかと思っている。短すぎるとピッチャーにかける言葉が見つからないし、これ以上長いと、打たれたピッチャーの精神が折れてしまう前に、マウンドにたどりつけない。
 健也がマウンドにたどり着いてもまだ、塚原は顔を下に向けたままだった。しわの寄った背中の背番号一番に向けて、声をかける。
「俺、医学部に行くのやめるわ」
 まさか甲子園がかかった試合のマウンド上で、キャッチャーに進路相談を持ち掛けられるとは思ってもみなかったのだろう。顎の下から汗を滴らせたエースが、ようやく顔を上げた。
「考えてみれば俺、別に医者になりたいわけじゃないからさ。社会人か独立リーグかクラブチームに行って、野球、続ける」
 教育大学に進んで高校野球の監督を目指すのであればやってみたいが、さすがに親の期待に真っ向から背いて、大学進学の費用は出してくれとは言い出せない。それならそれでいい。自分の生きて行く道くらい、自分で決める。
「何、うだうだやってんだよ!」
 三塁方向からひときわ大きな声がして、サードの長谷川巧が大股で近づいてきた。入学式の日に、新入生ではなく教師に間違われたという逸話を持つほど濃い顔の持ち主が、左手のグラブで、ピッチャーの背中を強かに打ち据えた。
「言っとくけどな、三沢や山根じゃ、この後を抑えきれねぇぞ。うちにはお前しかいないんだから、十回でも十五回でも投げてもらわねぇと困るんだよ!」
 まったく手加減なしに叩いたようで、塚原の細身の体が、衝撃で二、三歩、前につんのめった。言いたいことはわかるのだが、ここで怪我でもされてはたまったものではない。
 二、三歩つんのめって、後ろを振り返った塚原が、はじめて頬を緩ませた。外野から、ツーアウト、と叫ぶ声がする。レフトの守備位置で、梵が拳を突き上げている。
 エースの顔に、表情が戻る。余裕の笑みでもなければ、ひきつった苦笑でもない、不適、と呼べるピッチャーの笑みだ。
「一点あればいいよ。一点取ってくれれば、十回で終わらせるから」
 おう、と威勢のよい掛け声を残して、内野陣が守備位置に散る。続く九番バッターは、チェンジアップを打ってセカンドゴロに倒れた。

 再び三対二と一点をリードした延長十回の裏、ツーアウトランナー一塁。カウント二ボール二ストライクからの六球目は、鈍い金属音を残して、ほぼ垂直に打ちあがった。
 視界の端を、バットを投げ捨てたバッターランナーが、首を左右に大きく振りながら走って行く。マウンドを駆け下りたピッチャーが空を指さし、大きく声を張り上げた。
「キャッチャー!」
 見上げた空に雲はない。グラウンドにはない風が、上空では舞っているのだろうか。ボールがやや一塁側に流れる。外したマスクを放り投げ、落下点に入る。右手を大きく上げて、捕球の意思を示す。
 青一色の空から、ボールが落ちてきた。はじめ、白一色にしか見えなかった硬式ボールの赤い縫い目が、みるみるうちに迫って来る。
 さあ、来い。俺が捕る。
 顔の前に掲げた健也のミットに、今、ボールが落ちてくる。




扉へ/とっぷ/次へ