×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。


ラスト・イニング第二章 キャッチャー




 高二の秋から冬にかけて習得したチェンジアップは、投手塚原の貴重な武器となった。
 塚原を打ち崩そうと思えば、相手チームは大抵、低めのスライダーを捨てて、ストレートに標準を絞る。速球を狙ってバットを短めに構えたところに、ストレートと同じ腕の振りで遅くて沈むボールが来るのは、なかなかに有効なのだ。ツーストライクまで追い込んでしまえば、バッターは捨てると決めた低めの変化球にも手を出してくる。
 こいつ、すげぇ……。
 健也と塚原が高校三年生になった夏の大会、三回戦までを順当に勝ち上がり、四回戦の相手は県内屈指の強豪・常陽学園だった。
 常陽学園は、昨夏の大会は決勝で御堂実業に敗れたが、春の選抜に出場し、ベスト八に勝ち進んでいる。今大会でも打率四割を超える打者が四人もいて、一番から九番までどこからでも点を取れる、優勝候補の筆頭格だ。
 誰もが認める優勝候補相手に、試合は終始、茨城城東ペースで進んだ。一回の表に、塚原と健也のタイムリーで二点を先制すると、七回表には健也自身のホームランでさらに一点を追加。三対〇まま、試合は終盤戦を迎える。
 しかし何よりも試合を支配したのは、塚原のピッチングだった。
 ヒットらしいヒットは七回に打たれたツーベースだけで、相手打線に三塁を踏ませていない。本人も手ごたえを感じているのだろう。サインにほとんど首を振ることもなく、何の相乗効果か、普段は三球に一球はすっぽ抜けるカーブでさえ、低めのいいところに面白いように決まる。
 もしかしたら、俺はすごい奴とバッテリーを組んでいるんじゃないだろうか。
 これまでにも、そう思うことは多々あった。昨年秋に関東大会に出場し、あと少しで選抜に手が届くところまで、勝ち進んだ。一回戦であわやノーヒットノーランの一安打完封をした時もすごかったが、今日の投球はさらにその上を行く。野球選手として、キャッチャーとして心からそう思う。
 今年の夏は雨が多く、昨晩も、アスファルトの地面を叩きつけるような雨が降った。今も遠くの空には重苦しい雲が垂れ込めているが、ちょうど球場の上空で雲が割れ、グラウンドの一番高いところに立つピッチャーに、真夏の陽射しが燦々と降り注いでいる。
 夏の陽射しに白い頬を赤く染め、塚原が健也のサインに頷く。右足が上がり、踏み込むと同時に左腕がしなる。軸足の左足のユニフォームの膝に、マウンドの黒土が付くのは、調子が良い証だ。数秒後、重く鋭い感触が、キャッキャーミットを突き抜けた。
 こいつはすごい。そして、こんなすごい奴とバッテリーを組んでいる俺も、多分、結構、すごい。
 本来、総合病院を継ぐはずだった剛志の自殺は、柳家の教育方針に大きな方向転換を強いた。無理強いをして、また自殺でもされたらかなわないと思ったのだろう。健也は地元の茨城城東高校への進学を許され、野球部への入部も思っていたよりすんなりと、両親と祖父母から認められた。
 幸運にも、健也が入学したその年、茨城城東に赴任してきた宇田川は名門・御堂実業高校の監督を務めたことのある人物で、硬式野球というスポーツの怖さと面白を噛んで含めるように丁寧に教えてくれた。打者として、捕手として、自分の中に他者に誇れるだけの能力があることを、健也は宇田川の指導によって知った。
「――ストライク!バッターアウト!」
 三対〇で迎えた九回の裏、ツーアウトランナーなしから、インコース低めの真っすぐをバッターが空振りした瞬間、塚原はマウンド上で小さく拳を握りしめた。思わず笑みを浮かべてマウンドに走り寄る。整列のため、集まってきた選手達とグラブタッチを交わしながら、九回を投げ切ったエースを激励する。
「ナイスピッチ、塚原」
 さすがに疲れたのだろう。肩で息をしながら、塚原が笑顔を見せる。ゲームセット後は、整列と校歌斉唱、応援席へのあいさつとクールダウンのためのキャッチボールが待っている。
 その後には、これまでと同じ、甲子園へと向かう練習と試合の日々が続いて行くはずだった。

 茨城城東が常陽学園に勝利した次の日、全国版の夕刊紙が、塚原勇人を茨城城東のT投手として取り上げた。大本命の優勝候補を完封した好投手としての扱いではない。記事には、T投手が、白昼の街中で無差別殺人を犯した殺人犯の息子であると書かれていた。
 健也がその記事について知ったのは、練習を終え、自宅に帰ったあとのことだった。練習中、校長室に呼ばれた監督が戻ってくるなり、塚原を部室に連れて行ったので、健也は仕方なく、その後の練習はグラウランドを一人で走り込んでいた。明日は宇田川の前任校であった御堂実業との試合があり、御堂実業は常陽学園と並ぶ、県屈指の名門校である。この先もまだまだ、負けられない試合が続く。
 茨城城東高校から健也の自宅までは、自転車で二十分ほどの距離にある。練習が終わった後、電車で帰る生徒は待ち時間にコンビニで買い食いをして空腹を満たすが、中途半端に家の近い健也には、空腹を満たす余裕がない。今はもう、中学の伸び盛りの頃のように食べなくともいいはずのなのに、正直にいうなら、毎日腹が減って死にそうだった。
 ガレージに自転車を置いて家に入ると、居間には灯りが灯っていた。食卓には食べかけの食事が並んでいて、父親の治夫がビールを片手にしている。
「お帰りさない、健也」
「ただいま。腹空いた。手、洗ってくる」
 何を考えたのか、台所横の洗面台まで、母親の和代がついてきた。洗面台横の洗濯機に用があるのかとも思ったが、特に何をするでもなく、水滴のとんだ鏡に、見慣れた母親の顔が映し出されている。
 和代は市内の名家の出で、祖母のたっての計らいによる見合い結婚で、父に嫁いできたと聞いている。父の二つ年上の兄である伯父が恋愛結婚で、祖母と伯母の折り合いが合わず、どうしても次男の嫁は相性の合う人間を連れて来たかったらしい。大人しくて従順な性格で、健也はこれまで、母が父や祖母に逆らったところを見たことがない。
「どうしたんだよ、母さん?」
「健也……、あなた、大丈夫なの?」
「大丈夫って、何が?」
「今日、水原君のお母さんから電話があったのよ。あなたが野球部でバッテリーを組んでいるピッチャー、塚原君といったわね。あの子、殺人犯の息子なんでしょう?」
 一瞬、言われた意味がわからずに目をしばたたく。監督に呼び出された後、どこか意気消沈した風だった塚原の白い面が、眼裏を過った。
「は?何の話してんだよ、塚原がそんな――」
「見て。電話が終わった後、買いに行ったのよ。このT投手って、塚原君のことでしょう」
 コンビニや駅構内で売られているような低俗紙を、賤しくも柳家の嫁が買いに出かけたのか。そんな、いかにも祖母が言いそうな嫌味が脳裏に浮かぶ。新聞記事には、快進撃を続ける茨城城東のエースが、四年前、長野県松本市で起きた無差別殺人事件の犯人の実子であると書かれていた。そういえば、そんなニュースならテレビで見たことがあるような気がするが、しかしだから、何がどうしたというのだろう。
「それがどうしかした?」
 あいつも苦労したんだなと、ほんのわずかばかり同情めいた気持ちが沸くには沸いたが、健也にしてみれば、塚原の父親が殺人犯だろうが誘拐犯だろうが、知ったことではない。塚原はピッチャーで、健也はキャッチャーだ。キャッチャーとして、次の試合でも塚原の投げたボールを受けるだけだ。
「どうかしたじゃないでしょう。そんな子供が同じ部活に一緒にいるのよ。何かあったらどうするの!」
 基本、夫と舅姑には絶対服従の和代も、息子を相手には時折、声を荒げることがある。特に小学二年の夏、剛志と二人で母の鏡台にあった高級化粧セットをいたずらして、顔に頬紅やら口紅やらとぬったくった時の怒り様は尋常ではなかった。今でも、思い出すと身震いが出るほどだ。
「何かって何だよ?俺、腹が減ってんだけど」
「そんな子のいる部活にいて、危ないことはないの、健也?野球部の部室には、金属バットなんかも置いてあるんでしょう。剛志君が亡くなって、あなたの身にまで、もしものことがあったら病院はどうなるの」
 そこまで言われてようやく、殺人犯の息子である少年が、我が子に危害を加えるのではないかと危惧しているのだと気が付く。同時に何故、この人は聞かないのだろうと心から不思議に思う。息子のことを心配しているのなら、健也に向かい、一言問うてみればいいではないか。「塚原君はどんな子なの?」と母に尋ねられれば、「結構いい奴だよ」と笑って答えられる。
「三年生の七月なんて、医学部に行こうと思ったら一番勉強しなければならな時なのよ。ねえ、お願いだから、野球部を辞めて――」
「辞めねぇよ!」
 自分で思っていたよりはるかに、大きな声が出た。
 グラウンドで硬球を追いかける者が、焦がれないわけがないではないか。ましてや、今年の茨城城東にとって、甲子園は決して見果てぬ夢ではないのだ。あと三試合、積み重ねた勝利の先に、あの憧れの場所がある。
 必死で伸ばしたその上で、この手があの場所に届かないのであれば、諦めよう。ボールとバットを奥深くにしまい込んで、誰もが望む医学部進学の為に、教科書と参考書の中に埋もれてみせよう。だけど、それは今じゃない。まだ、夏は終わっていない。
 どうしてこの人は母親の顔をしながら、自分の子供のことをこんなにも、理解しようとしないのだろう。
「おい、どうしたんだ」
 怒鳴った声が大きすぎたのか、リビングから父親の治夫が顔を出してくる。健也は総合病院の院長である祖父の若い頃によく似ているそうで、治夫とはまったく似たところがない。腺病質でどんなスポーツにも縁がない治夫は、おそらく、野球のルールさえもろくに知らないだろう。
「お父さん、お父さんからも健也に、いい加減野球を辞めるように言ってやって下さい」
 ちらりとこちらを向いた眼は、明らかに面倒くさげだった。
「子供が、親を困らせるものじゃない。野球がしたければ、大人になって自分が稼げるようになってからすればいいだろう」
 地上デジタル化に合わせて購入した七十二インチのテレビでは、どこかで見たことのあるお笑い芸人が、相手の頭をどつきながら笑い転げている。
 父と母が去ったリビングテーブルに、母が買ってきたという夕刊紙がそのまま残されていた。
 ――やはり生い立ちの影響もあるのか性格は暗くて、野球部員以外のクラスメイトとは打ち解けられずいるようだ。
 自ら命を絶った従兄。決して子供を理解しようとしない親と、自分で選ぶことさえできない未来。
「うちだって、大して変わらないだろうが」
 つぶやきは、暗澹とした響きを帯びて、夜の片隅に消えて行った。




扉へ/とっぷ/次へ