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ラスト・イニング第一章 監督



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  九回の裏表に一点ずつを取り合って、試合は九対七で茨城城東が勝利した。さすがはひたちなか栄打線、九回の裏一死から、連打に四球を絡めて塚原から一点を奪ったものの、その後の塚原の投球は圧巻だった。続く二人のバッター二人を共に三球で三振に仕留め、マウンド上で雄叫びを上げて見せた。
 マイクロバスで学校に戻った後、携帯電話の電源を入れた時、着信歴が複数あった。いずれも心当たりのない同じ番号で、最後の履歴に、留守番電話録音がある。
「――ご無沙汰しています。お養父さん。武藤です。お時間が空いたら、できるだけ早く連絡をください」
 ぼそぼそと囁くような喋り方だが、不思議と聞き難くはない。「武藤」は美咲の嫁ぎ先の名前で、独特の喋り方は、彼女の夫のものだ。
 汗と土で汚れた指で携帯電話の通話ボタンを押す。娘婿の武藤はすぐに電話に出た。通話が終わった五分後には、宇田川は病院へ向かうタクシーの中にいた。

 精神安定剤を大量服用し、前後の見境を失くして公道上で倒れ込んだ佐和子が運び込まれたのは、市内にある総合病院だった。精神科が併設されており、何度がその閉鎖病棟に入院したこともある。
 消毒薬と薬品のにおいが染みついた廊下を、できるだけ足音を殺して歩く。他の病棟から少し離れたところにある精神科の待合室に、武藤省吾が座っている。胃洗浄の上、鎮静剤を投与され、佐和子は病室で眠っているという。
「ご無沙汰しています。お義父さん」
 公立高校で化学と物理を教える武藤は、身長百七十センチに満たない小柄な体型で、丸っこい顔に眼鏡をかけている。はじめて会った時、子供のころ美咲を連れて映画を見に行った、国民的人気アニメのキャラクターを思いだした。眼鏡をかけたのんびり屋の少年ではない。未来から来た猫型ロボットの方だ。
「すまない。面倒をかけたね、武藤君」
「いえ。こちらこそ普段、連絡もせず申し訳ありません」
 美咲が実の両親を嫌っている為、彼らが結婚する時には、両家の顔合わせや結納も、まともな結婚式さえしなかった。当時は、相手の家や職場での立場は大丈夫なのかといらぬ心配をしたものだが、特に気にする風でもなく、県内の教職員住宅で、美咲と聡と三人で家庭を築いている。
「本当は美咲……美咲さんを連れてくるべきなんでしょうが、今、二人目の子供が腹にいるんです。実家のことになると、あいつ、いつも興奮してしまうから……差し出がましいかと思ったんですが、僕が入院の書類を預からせてもらいました」
 そうか、俺に二人目の孫ができるのか。実際に抱き上げることも、顔を見ることさえできなくとも、それは純粋に嬉しかった。自分自身の血を分けた小さな存在が、この空の下で確かに成長しているのであれば、間違いだらけの人生もさほど悪くなかったと思える日がやって来るかもしれない。
 病院のベンチに二人で並んで座って、感慨に浸っていた時、突然、武藤がその場に立ち上がって首を垂れた。カルテや点滴の用具を抱えて通りかかった看護師が、驚いた顔を見せて通り過ぎる。
「申し訳ありません」
「おいおい、どうしたんだ、武藤君?礼を言うのはこちらの方だ。助かったよ」
「いえ、そうじゃなくて、その、おれ、お義父さんには、どうしても一度謝りたかったんです」
 たどたどしく紡がれた言葉は、やはりぼそぼそと囁くようで、それでいて一語一語が明確で明瞭だった。仕事中は白衣を身にまとい、化学室で生徒達にこうやって実験の手順を説明しているのだろう。
「おれなんです。おれが言ったんです。美咲が高三の時に、おれが美咲に、お義母さんから逃げてもいいと言いました」
 美咲が高校三年生の頃は、まだ御堂実業にいた宇田川へのバッシングが、もっとも酷かったころだ。佐和子が完全に精神を病み、父親に助けを求められず、美咲は親しみやすい副担任に助けを求めた。
 逃げたらいい。高校を卒業したら家を出て、ご両親とかかわるのをやめてしまえ。本来、お母さんの世話をするのはお父さんの役目であって、君が背負いこむことじゃない。
 このままじゃ、お母さんを殺してしまう。そう言って泣きじゃくる十七歳の女子高生に、他にどんな言葉をかけようがあっただろう。その言葉に救われた美咲と、その言葉に罪悪感を抱いた武藤が結ばれるまでの間に、どのような葛藤や過程があったかはわからない。それはもう、親の立場では預かり知らないことだ。
 どれほど悲しく、寂しいと感じようとも。
 不意に、今日、マウンドに立っていた少年のことを思い出した。彼は野球から逃げないのではない。逃げられないのだ。逃げてしまえば楽になれるかもしれないのに、特出した才能と能力が、少年にグラウンドからの逃避を許さない。野球の神様も残酷なことをする。もっとも過酷な形で、類まれなる才能を一人の少年に与えた。
「顔を上げてくれ、武藤君」
「お義父さん」
「君が謝る必要なんてないんだ。君に感謝しなければならないのは、俺と佐和子の方だ。ありがとう。できれば、美咲に伝えてほしい。俺達のことは忘れて、元気な子を産んでほしい、と」
 仕事を抜けて来たという武藤の背中を押すようにして、病院の出口に追いやってやる。何度も何度の頭を下げる娘婿の背中を見送った後、入院に必要な書類を持って病院の受付へと向かう。
 もう何度も経験したので、精神科の入院の手続き方法は知り尽くしていた。

 決勝戦は、県南東部に位置する公立校・土浦南高校との対戦となった。三十四年前に一度甲子園出場があるものの、土浦南も茨城城東と同様、ここ数年はベスト十六が最高というレベルの高校で、好投手塚原・強打者柳を有する茨城城東の方が、まだしも前評判が高かったかもしれない。共に大会前はさほど評価の高くなかった、いわばダークホース同士の戦いである。投手を中心に守りが固く、粘り強く戦う試合運びのパターンもよく似ている。どちらが勝っても不思議はない。決勝戦前、地元紙のスポーツ欄はそう論評した。
 まさかその論評をなぞったわけでもあるまいが、試合はどちらに転ぶとも知れぬシーソーゲームとなった。土浦南が四回裏に先制するも、茨城城東が六回表に追いつく。九回の表に茨城城東が三番塚原のタイムリーで勝ち越ししたのも束の間、九回の裏に土浦南の八番打者が、塚原からホームランを打ち、試合は延長戦にもつれ込む。
 九回の裏に同点のホームランを打たれた後、塚原は膝に手を置いて、肩で息をしていた。起死回生、当たり千金の同点打は、今大会で塚原がはじめて打たれたホームランだ。エースの気持ちが折れれば、このまま追加点を奪われてサヨナラされる可能性が高い。伝令を送ろうとしていた宇田川は、呼び寄せていた選手をベンチに戻らせた。キャッチャーの柳、一塁手の長谷川翔太、二塁手の大崎と遊撃手の沖原、三塁手の長谷川巧の内野陣が自主的に、マウンドに集まって行ったからだ。
 三塁手の長谷川巧が、塚原の背中をグラブで叩く。大崎が親指を上向きに拳を握りしめる。打たせていいぞ。マウンドの集まっていない外野から、ベンチにまで聞こえるほどの大声が響いた。レフトの梵は、塚原、柳に次ぐ好打者で陽気な性格の人気者だ。センターの川原田はチーム一番の瞬足、ライトの田中は強肩と好守備で、茨城城東のイチローとの異名を持つ。
 ベンチの薄暗がりから見つめるグラウンドは、いつも眩いばかりに光り輝いて見える。夏の陽射しの照り返しの所為ではない。内側から光を発しているように見えるのだ。それは多分、学校の看板も嫉妬も挫折も栄光も、何もかもを含めて、野球がそこでプレーする選手達のものだからなのだろう。
 十回の表、一死一塁から、長谷川翔太の打球が外野の頭を越した時、宇田川も選手と一緒になってベンチから身を乗り出した。勝敗は時の運とはよく言ったもので、クッションボールの跳ね返った位置が、茨城城東にとって最高、土浦南にとっては最悪だった。レフトフェンスを直撃したボールの角度が急激に変わり、カバーに入ったセンターの横をすり抜けて、左中間を転々と転がった。
 三塁ベースコーチを務める二年生の川崎が、ぐるぐると大きく腕を回す。一塁走者が、本塁に滑り込む。ボールは内野に返っただけで、バックホームされてはこない。
 地の底から沸き立つように、グラウンド、ベンチ、客席に歓声と悲鳴が突き抜ける。宇田川が決勝戦のマウンドに塚原を立たせたことを、校長は今頃顔を真っ赤にして怒っていることだろう。佐和子の退院の見通しはなく、二人目の子を身ごもった美咲からは、何の連絡もない。
 何もかもすべてが、今、この歓声と興奮の前で小さく霞んでみえる。
 三対二と茨城城東が一点リードで迎えた十回の裏、ツーアウトランナー一塁から、茨城城東バッテリーは、内角高めのストレートを選択した。球数百四十球を越え、さすがの塚原も疲労の色を隠しきれない。それでも変化球が甘くなるよりは、球威で押し切ろうと判断したのだろう。エースの渾身のストレートは、バッターにフルスイングを許さなかった。金属バットから鈍い音がして、ボールがほぼ垂直へ空へと向かう。マウンドを駆け下りた塚原が頭上を指さし、マスクをかなぐり捨てた柳が、大きく右手を回している。バットを投げだして一塁に走りだしたバッターが、走りながら首を大きく左右に振った。
 目を凝らしても雲の欠片すら見つからない、青一色の夏空から、今、ボールが落ちてくる。




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