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ラスト・イニング第一章 監督




 準決勝の日は、ほぼ一週間ぶりの晴天となった。明け方近くに一雨あったものの、日が昇るころには雨雲は去り、夏そのものの晴天が広がっている。遠くの山の頂には入道雲が垂れ込めているが、今日・明日の降水確率は十%未満で、球場を訪れる観客たちも、久しぶりに傘を持ってはいない。
 一塁側、三塁側で陣取る応援団がしきりに汗をぬぐっている。部員数五十四名、ベンチ入りを外れた三十四名が応援団として陣取るひたちなか栄側とは異なり、茨城城東の応援席は、ベンチ入りを外れた五名の選手と、選手の父母や関係者がいるだけだ。全校応援もブラスバンドの応援もない。
 夏の県大会準決勝、茨城城東高校対ひたちなか栄高校戦の一戦。ひたちなか栄高校は、今大会屈指の強力打線を誇り、過去五試合で総得点は四十点を超える。一方、守備力と投手力には粗さが目立ち、失点も三十点以上ある。そんなひたちなか栄を相手に、茨城城東のスタメンが発表された時、球場内にざわめきが走った。茨城城東高校の先発投手がエース塚原ではなく二年生の三沢で、塚原は三番の打順からもはずれてベンチからのスタートとなったためだ。
「監督、本当に、リードすれば塚原を投げさせるんですよね」
 試合開始前、最後の守備練習を終えてベンチに戻る時、キャッチャーの柳が宇田川にそう問うた。眉をしかめた精悍な表情が、すでに少年から青年に変わりつつある。柳健也は、四番キャッチャーを務める、チーム一のスラッガーである。茨城城東がここまで勝ち進んできた要因には、エース塚原の存在以上に、彼の存在が大きかった。いささか真面目すぎる性格ながら、チームをまとめる磁力があり、新チーム結成直後、宇田川は迷わずキャプテンに指名した。副キャプテンでレフトのレギュラーである梵ともども、戦力が豊富ではないチームをここまでよく引っ張って来てくれた。
 準決勝の相手がひたちなか栄に決まった段階で、バッテリーと副キャプテンには、二番手の三沢を先発させることは伝えてあった。ここまで五試合、リリーフを含めて塚原は全試合に登板している。おまけに、準決勝と決勝は連投だ。守備の粗いひたちなか栄に最少得点差で食らいつき、リードしたところでエースを出す。宇田川のゲームプランに、選手達も納得していたはずだった。
 それでもキャプテンが今、あえて確認せずいられないのは、宇田川が塚原を三番の打順からも外した所為だ。これまでピッチャーとして登板しない場面では、塚原はファーストの守備についてきた。当然、三番ファーストで先発するもとの思い込んでいたところに、試合前のメンバー交換直前にはじめてエースのベンチスタートを知らされたのだ。
「監督!」
 真っ直ぐに食らいついてくる視線に答えられずに、自分がキャプテンに指名した少年から、視線をそらす。視線を逸らした先、ベンチ隅の暗がりで、ファーストミットを持った背番号一番が一心にグラウンドを見つめている。
 本当は、宇田川も準決勝には塚原を三番ファーストで先発させるつもりでいたのだ。茨城城東打線において、打率三割を超えているのは、塚原と柳の二人のみ、三番塚原は貴重な左の長距離砲だ。打ち勝つのであればなおさらのこと、塚原勇人をスタメンから外す意味はない。
 準決勝のスターティングメンバーが変更になったのは、出発の直前、茨城城東の選手と宇田川が、学校を出るバスに乗り込むほんの十分前のことだった。

「――塚原を試合に出すなと?本気で言っているのですか、校長」
 ガラス張りの校長室の窓から、夏の陽射しがまともに飛び込んでくる。準決勝は十一時試合開始予定、茨城城東高校から球場まではバスで三十分程度の距離にある。試合間の準備を考えて、九時には球場入りしたい。現在の時刻は八時十五分、残された時間は十五分程度しかない。
 後頭部が綺麗に禿げ上がった校長が、校長席の椅子から立ち上がる。無言で机の引き出しを開けて、机の上に封筒の束を投げだした。手書きのものも、パソコンのワープロソフト打ちのものもある。
「あの報道が出て以来、うちに届いた手紙の数だ。マスコミの取材も相当来ている。世間の目は、殺人犯の息子がエースである学校を許しはしないのだよ、宇田川君。それだけではない、保護者からの電話も来ていてね。その大半が苦情だ。茨城城東が殺人犯の息子の学校と知れることで、生徒の進学や就職に関わるかもしれないと、みな、心配しているんだ」
 校長室には、インターネットに接続できる専用のパソコンディスクがある。年齢の割に軽やかなキータッチで、校長は茨城城東高校のホームページにアクセスをした。ホームページの掲示板は、無残、の一言に尽きた。被害者の気持ちを考えろ。そんなにしてまで勝ちたいか。無差別殺人犯の遺伝子を許すな。ありとあらゆる罵詈雑言が書き連ねられている。
 何度かスクロースした掲示板の先に、毒々しい内容の書き込みがあった。殺人犯の子供をかくまう学校に正義の鉄槌を下したとある。日付を見ると、学校の花火の投げ込みがあった次の日のことだった。
「警察もこの書き込みに注目して、その線で捜査をすると言ってきている。君も子供ではないんだ、わかるだろう。これ以上あの選手を試合に出すようでは、私も野球部を庇いきれない。君は優秀な指導者であり、教員だ。わたしとしても、君にはこの学校にいてほしいのだよ」
 そんなことは野球とは関係ない。喉まで出かかった言葉をかろうじて飲み下す。これは交渉でも忠告でもなく、恫喝なのだ。私立学校の人事の権限は、校長と理事会にある。塚原勇人を選手として使えば、教師としての立場を保障しないと、暗に脅しをかけている。
 伊達に校長の地位にはついているわけではない。それが宇田川に対する脅しになると、十分に理解して、彼は伝家の宝刀を抜いたのだ。
 野球以外に取り柄のない、担任も役職にもついていない私学教諭の給与は決して高くない。佐和子の入院費や医療費もあり、正直なところ、さほどの蓄えはないのが実情だ。そして何より、名門御堂実業高校を不祥事で追い出され、今回もまたスキャンダルがらみで解任された四十代の中年教諭を雇ってくれるような高校が、県内にあるとは思えなかった。精神病の佐和子を抱えて、県外で職を探すなど、ほとんど不可能に近い。
「監督!バスが出ますよ!早く来てください!」
 宇田川が何も答えずいるうちに、タイムリミットの十五分が過ぎ、部長教諭の山辺が校長室に駆け込んできた。一礼して部屋を去る直前、校長室の窓ガラスに映った宇田川の顔は、はっきりとわかるほど、歪んでいた。

 夏の県大会準決勝、茨城城東高校対ひたちなか栄高校の一戦は、五回終了時点で四対四の同点となった。一回の裏と二回の裏にひたちなか栄が二点ずつを奪うも、茨城城東が三回に二点、五回にも二点を奪って同点に追いつく。先発投手の三沢は三回以降立ち直り、強打のひたちなか栄打線を無得点に抑えている。
 もしかしたら、監督である宇田川自身が誰よりも、選手たちを見くびっていたのかもしれない。三沢の投球は想定の範囲内だが、塚原抜きの打線が、ここまで相手に食らいつくとは思っていなかった。五回の表に、瞬足の一番二番が足でかき回し、四番柳のツーランホームランで同点に追いついた時、背筋に冷たいものが走った気がして鳥肌が立った。茨城城東の選手達は、ここまで一つもエラーをしていない。打率の低い下位の打者たちもバットを短く持ってよく粘り、時にはセーフティバントを試みて、相手バッテリーを十分以上に揺さぶっている。
 ユニフォームを真っ黒にして、グラウンドで白球を追う選手達。彼らは信じているのだ。打ち勝つのだと告げた監督のゲームプランを、リードすればエースを出すと言った宇田川の言葉を信じて、必死にプレーしている。キャプテンの柳でさえ、試合がはじまったあとは、実戦経験の少ない二年生投手をリードすることに集中している。
 試合が終盤に差し掛かった七回の裏、球数百二十球を超えた先発の三沢が、ついにひたちなか栄打線に掴まった。三、四番のヒット皮切りに、長短打を合わせて三連打を浴びて二失点。しかし、八回の表、今度は茨城城東が下位打線の連打と四球からチャンスを掴み、一挙四点を奪う。得点差は八対六、この試合はじめて、茨城城東はひたちなか栄からリードを奪った。
 そうして迎えた八回の裏の守りの前、ベンチ前にはすべての選手が集まっていた。八回の表の攻撃で、茨城城東は今日九番に入った先発の三沢に代打を使った。今日ベンチ入りしている投手は、エースの塚原のほかに一年生の山根がいるが、山根はこれまで、公式戦で登板はない。
「監督!」
 足にプロテクターをつけた柳が身を乗り出して問いかけてくる。柳の隣には、今日はファーストの守備についている副キャプテンの梵がいて、セカンドの大崎、ショート沖原の二遊間コンビが不安げな眼差しを向けてくる。今日は塚原と共にベンチスタートとなった背番号三番の長谷川翔太が、ファーストミットを片手に、試合に出る気で満ち溢れている。
 お前らは本当に、エースの登板を望むのか。自分自身を見つめる真っ直ぐな眼差しに、声を上げて聴いてみたくなる。こいつは殺人犯の息子だぞ。こいつを試合に出せば、お前ら全員が、殺人犯の息子のチームメイトと呼ばれるんだ。進学や就職にだって差し支えるかもしれないんだぞ。
 時刻はちょうど正午を回り、真夏の太陽が野球場の真上にある。少し視線を下に向けると、選手たちの足元で小さく蠢く影が見えた。どの選手のスパイクの紐もユニフォームの裾も、グラウンドの土で真っ黒に汚れている。
 何故、勝利を求めるのか。問われたところで答えるのは難しい。高校野球に携わるものとして、常に甲子園への望みはあるけれど、それだけがすべてだとは言い切れない。甲子園に出場したからと言って、得られるのは一瞬の喜びと名誉だけで、その後の人生は果てしなく長い。真夏のグラウンドで、土と汗にまみれるよりももっと賢い生き方が、間違いなくきっとどこかにはある。
 顔を上げた瞬間、まっすぐに屹立した背番号一番と目があった。
 両チーム合わせて十八安打が乱れ飛ぶ乱打戦で、まだ試合に出ていない塚原のユニフォームは純白に光り輝いている。あの日の部室で見せた迷子のような眼差しはそこにはなかった。グラウンドの一番高いところで、ボールを投げ、バッターをねじ伏せるピッチャーの顔だ。
 わずか十七歳のその肩で、宇田川に計り知れない重荷を抱え、少年はこれまでを生きてきた。今を生きている。これからを生きていかなければならない。
 心がふと、過去に引き戻される。現役時代、宇田川は名門、御堂実業高校のショートストップのレギュラーだった。当時のエースは同学年の右投手で、塚原とは体格も投手としてのタイプも違うけれど、ショートのポジションから見上げる背番号一番はグラウンド上で、いつもくっきりと浮き上がっていたものだった。
 そうだ、お前はピッチャーなんだな。お前はピッチャーで、俺はお前たちの監督なんだ。
「この回から守備を変えるぞ」
 監督の言葉に、選手たちが息をのむ。さらに身を乗り出そうとした柳を、梵が手で制している。
「梵はレフトに戻れ。ファーストは翔太。ピッチャーは――」
 ゆっくりと振り仰いだ先で、背番号一番の肩が大きく震える。高校球児にあるまじき色の白い顔に向かい、宇田川は口の端を釣り上げて見せた。
「後は頼んだぞ。エース」




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