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ラスト・イニング第一章 監督




 夏の高校野球県大会準決勝、茨城城東高校対御堂実業高校の一戦は、大方の予想通り、投手戦となった。
 三回の表に御堂実業が一点を先制したものの、その後は茨城城東・塚原、御堂実業・関の両投手が一歩も譲らず、一対〇のスコアのまま、九回の裏、茨城城東高校の攻撃を迎える。
 雨の多い今年の夏、今日もまた午前中に雨が降り、上空には重苦しい雲が垂れ込めている。それでも気温は三十度を超え、ほとんど風のないグラウンド上での体感温度は、三十度をさらに超えるだろう。選手達にこまめな水分補給を命じながら、宇田川自身、全身から噴き出した汗でアンダーシャツがぐっしょりと濡れていた。
 御堂実業のエース関は、ドラフト候補とも目される県屈屈指の右投手で、ストレートのマックスは百五十キロを超える。簡単に打てないことはわかり切っていたが、五回以降、茨城城東に一人の走者も許していなかった。それでもさすがに疲れが見えた九回の裏、茨城城東は四球と安打で、二アウト満塁のチャンスを迎える。バッターボックスには八番、沖原。ショートのレギュラーであり、自他ともに認める守備の人、彼の守備で救われた試合は数知れないが、打率はここまで一割少々しかない。
 ――八番、ショート、沖原君。
 球場のアナウンスが流れた瞬間、茨城城東側の応援席からは微かなため息が漏れた。これが人材豊富な名門校ならば代打という手段もあるだろうが、総勢二十五名の茨城城東に、レギュラーに代わる駒がいるわけもない。
 ここまでか。他でもない、監督である宇田川自身が誰よりも明確にそう思う。これまでベスト十六が最高のチームを率いて強豪校を打ち破り、準々決勝でも、県屈指の名門校相手に互角に戦った。試合が終わったら、選手達を充分にねぎらってやろう。お前たちは十分に戦った。ここまでやった自分たちを誇りに思っていい。
「――監督、キャッチ、行ってきます」
 グラウンドを見つめる視界の先に影が落ちる。見上げた先では、色白の背番号一番が、唇を真一文字に結んでいる。
 他の選手と同じだけ屋外で練習しているのに、塚原は日に焼けない肌質らしく、炎天下で一日ノックを受けても、頬が微かに赤らむくらいで、翌日にはすぐ元に戻る。宇田川が夕刊紙を見せられたその日の午後、部室に呼び出された塚原は、女子生徒が羨ましがるような白い頬を曇らせて、ぽつり、ぽつりと、当時のことを語った。
「小五の時に、祖母ちゃん、いえ、祖母が亡くなって。その後、親父が会社を辞めて荒れるようになって、母親が家を出て行って……、親父は何か月も帰ってこなくって、中学に入った後はほとんど、シニアの監督の家で生活していました」
 中学一年や二年の子どもを家に残したまま何か月も帰宅しないなど、育児放棄も甚だしい。塚原が類まれなる投手であるという以上に、シニアチームの監督が見るに見かねたのだということは、同じ立場にある人間として十分に理解できる。
「本当は長野の高校に行くはずだったんですけど……、練習中に親父が事件を起こしたって連絡が来て。母親は再婚していたんで、母親のところには行けなくて。茨城の伯父さん……養父が養子にしてくれて、茨城に来ました」
 茜色差し込む野球部の部室で、十七歳の少年は、途方にくれた目をして宇田川を見た。日頃は口数も少なく大人しい性格が、いったんマウンドに立つと、他者がたじろぐほどの強い眼差しになる。この投手はこんな目をするのか。ベンチにいて、ひそかに感嘆したことも一度や二度の話ではない。
 たった一人、練習中に部室に呼び出されて、少年の眼差しは親にはぐれた迷子のように心細げだった。元々、饒舌な性質ではないし、事実、心細いのだろう。彼を呼び出す前、学校のパソコン室から、事件のデータを呼び出してみた。事件で負傷し、今もPTSDに苦しむ人間が何人もいて、死亡した子供の両親は、犯罪被害者遺族の会で活動をしているらしい。宇田川も子を持つ親であり、孫のいる祖父でもある。自分自身の子や孫が被害者の立場であったなら、目の前の少年になんら罪はないと知っていても、犯人の息子に悪い感情を抱いたかもしれない。
 心配するな、と宇田川は答えた。お前は何も気にしなくていい、ただ明日の試合に全力と尽くせ、と。
 事実、塚原は持てる力のすべてを使い、御堂実業打線を九回まで一失点に抑え切った。球数が七回で百球を超えた時点で、宇田川は塚原にイニング間のキャッチボールを禁じている。一点差のただでさえ緊迫した試合展開で、無駄に疲れる必要などない。この気温ならば黙って座っていても、肩が冷える心配もない。
「キャッチ、行かせてください、監督」
 二年生の控え捕手を傍らに、エースは右手にグラブをはめていた。この状況で、負けているチームのエースがベンチ前でキャッチボールを行う意味など一つしかない。デモンストレーションだ。エースはまだ投げられる。試合を捨ててはいない。
 相手チームに、スタンドに座る観客に、塁を埋める走者と、そし他でもないバッターボックスのバッターに向けて。
 カウント三ボール二ストライクからの七球目、沖原が打ち上げた打球は、ボールの威力に完全に負けていた。一点差の九回裏、二塁走者の生還阻止為に外野手がかなり前に出ていたから、あと少しバットを振りぬいて、打球に勢いがあったなら、ライトにダイレクトで捕球されていたかもしれない。完全に力負けした打球は、ふらふらと不規則な回転でセカンドの頭の上を越え、必死で追いすがるライト、ショート、センターの中間にぽとりと落下した。
 歓声と悲鳴が同時に同時に響き渡る。ユニフォームの前を真っ黒に汚した三塁ランナーが満面の笑みでホームベースを踏みしめる。しかし、さすがは名門御堂実業の守備、ツーアウトでスタートを切っていたというのに、二塁ランナーの本塁突入はクロスプレーになった。ベンチからは、腕を伸ばしてホームベースに滑り込んだランナーの指先とそれをブロックするキャッチャーのタッチは、ほぼ同時に見えた。
 刹那、すべての音が消える。悲鳴も歓声もため息も叫び声も聞こえない空間で、審判の両手は左右に大きく開かれた。
「セーフ」
 すでに二塁ベースの手前まで来ていたバッターランナーが、両手を宙に突き出してジャンプする。ベンチ前でキャッチボールをしていた背番号一番と十二番が白い歯をこぼして抱き合っている。
 逆転サヨナラで、茨城城東高校が準決勝進出。念願の甲子園出場まで、あと、二勝となった。

 ガラスが割れる音と自動車のバックファイアの音を聞いたのは、深夜一時を少し回った頃のことだった。
 佐和子が冷房の風を嫌がるので、宇田川家では夏の夜、クーラーのスイッチを切る。湿度の高い夏の熱帯夜は、窓を開け放してもろくに風が通らない。寝苦しさに何度も寝返りを打って、それでも少しは眠ったらしい。突然の破壊音に飛び起きて、寝間着姿のまま家の外に出る。遠くで消防車のサイレンの音がして、隣家の主人である飯山信二がストライプのパジャマ姿で立っていた。
「何があったんですか、教頭」
 教職員住宅の隣人である飯山信二は五十七歳、一度も校長になれぬまま定年まであと三年を切ったベテラン教員は、教育者としても人間としても、校長よりはるかに周囲の評価は高い。宇田川の赴任前、野球部で顧問教諭を務めていたこともあり、これまでにも何くれとなく世話になってきた。
 さすがは、校内暴力全盛期の昭和に教師になったベテランと言うべきが。夜中に学校で起こった異変にもさして動揺はせず、頬には苦笑いさえ浮いている。
「どうやら誰かが、学校の窓を割って花火を投げ込んだらしい。幸い火はつかなかったが、消防と警察を呼んだから、しばらく騒がしくなるだろう」
 教員歴は飯山よりはるかに短い宇田川も、夜中に学校に忍び込んでガラスを割った生徒にならば過去に出会ったことがある。だがガラスを割って花火を投げ込んだとなると、学校に不満を持った生徒の所業にしてはいささか手が込んでいる。それに先ほどの異変の直後、確かに自動車の発進音がした。現役高校生は通常、車の免許は持っていない。
 何と言うべきか言葉を探しあぐねた時、背後から金切り声が鳴り響いた。いつの間に外に出て来たのだろう。宇田川家の玄関前で、佐和子が両手で頭を抱え、小刻みに震えている。
「佐和子!」
 四年前のバッシング報道以降、佐和子は他者から向けられる悪意や敵意に過敏に反応するようになった。あからさまな悪意だけではなく、自分自身に対するどんな些細な忠告や叱責にも耐えられない。その認識は間違っている。こうした方がいいのではないか。こういった考え方もできる。そんな言葉を浴びせられるたび、金切り声をあげて座り込むだけならまだ良い方で、精神安定剤を大量に服用したり、自殺未遂を図ったこともある。小さな教職員住宅からほとんど外出もせず、小さな閉じられた空間で、誰とも何とも関わらずにただ息をしている。だからこそ、一人娘が親を捨てていった意味を考えてみようとはせず、送られてきた絵葉書に素直に喜ぶことができる。
 佐和子と暮らすためには、細心の注意を払って、彼女を刺激する言動を生活の中から締め出さなければならない。決して佐和子を否定せず、佐和子のすべてを肯定し、佐和子が生きやすいように、環境を整えてやる。そんな風に誰かと接して、お前は本当に幸せなのかと問いかけることなど、もちろん、できない。
 美咲が、家庭に無関心であった父親だけではなく、病の母親をも捨てていった意味がよくわかる。正直にいうなら、たまったものではない。
「大丈夫だ、落ち着け、佐和子」
 小刻みに震える妻を支えて立ち上がらせた時、飯山と目があった。飯山は宇田川が茨城城東高校に赴任してきた理由も、妻が精神を病んでいることも承知している。それでも、目があった瞬間、いかにも気の毒だといわんばかりに歪められたベテラン教師の眼差しは、純粋に、胸に痛かった。
 消防のサイレンとパトカーの音がだんだんと近づいてくる。痩せて骨の浮き出た肩を抱き、宇田川は教職員住宅の玄関を開けた。




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