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西明り


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 5
 ――くつくつくつ。
 誰かが喉を震わす音がする。痛い程の視線を全身に浴びながら、平伏していた所為で、初めは、誰が笑っているのかわからなかった。恐る恐る首を上げて、隆元は笑っているのが今この場で最も上座にある男――大内義隆であることを悟った。
 孔雀の羽飾りのついた渡来品の扇を片手に、おかしくてたまらない、といった顔をしている。たかだか人質の分際で主家の姫を――それもとうに許婚のいる――を欲しいと言い出したのだ。激昂され、この場で切り殺されても不思議はない。だが、義隆は今、確かに笑っている。文弱で公家好みなだけの男ではない。隆元はほんの一瞬、西国の雄、大内家を束ねる男の底知れなさを垣間見た気がした。
「――緋奈よ」
 いまだ喉仏を震わせたまま、少し離れたところに座った姫君に視線を向ける。姫君は牡丹の花をあしらった豪奢な打掛を着ていた。少し前より髪も伸び、装いは既に少女ではなく娘のものだ。
「隆元がそなたを妻に欲しいと言っておる。そなた、毛利に嫁に行く気はあるか?」
 いつかの宴のような、花のような笑顔も嬌声もなかった。立ち上がった姫君は隆元の隣に膝を落とし、三つ指をついた。
「――わたくしは、隆元様の妻になりとうございます」
 凛と鈴を鳴らしたような声が響いて、肩先と肩先が触れ合う。討たれる時は共に。彼女の覚悟を見た気がして、隆元も額を床に押し当てる。
 ぱちん、と扇を閉ざす音がして、再び首を上げた時、義隆の視線は既に隆元の上にはなかった。
「皆の者――」
 義隆の見渡す先、姫の父親である内藤興盛は娘に取り残され、ただただ呆気に取られている。その他、歴戦の兵(つわもの)達もさすがにこの展開は予想していなかったと見えて、ひたすら目を白黒していた。
「隆元は緋奈を妻に欲しいと言う。緋奈は隆元の妻になりたいという。どうだ、似合いの夫婦雛だとは思わぬか」
 吐息に似たものがどこからともなく沸いてきて、辺りを圧し包んだ。めでたい、と誰かが呟いた途端、吐息は弾けたような歓声に変わる。
「お館様お声がかりの縁組じゃ。めでたい。めでた――」
 寿(ことほ)ぐ声が半ばで途切れた。立ち上がった義隆がおもむろに刀の柄に手をかけた所為だ。
 金属が空気を切る独特の音が響いて、灯火が激しく揺らめく。湧き出た汗が背筋を滴り落ちた時、隆元の喉に触れたのは白刃ではなく、閉ざした扇の先端だった。
 ひやりと冷えたものが顎下に押し当てられる。決して目を逸らすまいと思っていたのに、実際にはほんのわずかの間、視界を閉ざしていたのかもしれない。一体、いつのまに刀が扇に摩り替わったのか、見当もつかない。
「――毛利隆元よ」
「は……」
「望みに任せ、我が姫をくれてやろう。そなたは我が娘婿じゃ。大内の一員として、必ずや尼子を討ち払ってみせよ」
 姫君を嫁に出すのは今すぐではなく、毛利が尼子を撃退した暁ということであり、従属している主家の姫を嫁に貰うとなれば、毛利は決して尼子に降伏できない。これも一種の政略結婚ではある。
 何はともあれ、こうして毛利の嫡男と内藤家息女の婚約が整い――
 祝宴は明け方まで続いた。



 物思いに浸っているうちに、西の空に茜がかかった。ねぐらに戻る鴉が群れをなして吉田の里を横切って行く。
 吹き抜ける風に冬の息吹が混ざる。昼日中の気温も大分低くなったので、もうそろそろ初霜が見られるかもしれない。
「――兄上」
 白湯を含んだ唇を拳で拭っていると、いつの間にか、先ほどまで夫婦喧嘩に励んでいたはずの弟が立っていた。何だかさっき見た時とと着ているものが違わないか……と訝んでいると、着物の襟元を摘み上げ、満面の笑みでのたまう。
「兄上、見てください。これ、沙紀殿が俺の為に縫ってくれたんですよ!」
「――おやめください。もう、元春様ったら!」
 そんなことを自慢する為にわざわざ着替えてきたのか。呆れ果てたた兄が口を開くより早く新妻が駆けてき寄ってきて、夫の袖先を掴んで連れて行った。耳朶まで、夕焼け空より真っ赤に染めている。この愛らしい娘を捕まえて、一体誰が天下の醜女などと言ったのかと疑いたくなるが、もう何年でも勝手にやっていてくれ、としか言いようがない。
 隆元が郡山に戻って間もなく、二回目の尼子軍の遠征があり、郡山城下は戦火に包まれた。その後、出雲に遠征した大内軍が大敗を喫し、安芸を含む西国の情勢図が変わったことなどもあり、隆元と姫君は関係は未だ許婚であり――今なお、許婚でしかない。
 いつしか隆元は二十の歳を過ぎ、姫君もとうに結婚適齢期を過ぎてしまった。それでも隆元に他の女子を妻に迎えるつもりはさらさらなく、緋奈姫も山口の地で、嫁き遅れの悪口を蹴飛ばして歩いているらしい。
 ――大丈夫。いつの日か、きっとまた会える。
 飛び立つ鴉の一羽が一際大きく啼いて、黒々とした梢が揺れた。秋の陽はつるべ落としというだけあって、沈みはじめてからが早い。閉ざした瞼の裏側を西明りの名残が沈んで行く。
 ――彼(か)の国はあちらだろうか。



 毛利隆元は大内義隆の養女を娶り、一男一女を儲けた。隆元の死後、寡婦となった妻は実家には帰らず、隆元の遺児と毛利家を守り続けた。
 隆元が戦場から彼女に送った手紙には「たいした事は起きていないが、この手紙を預ける男が吉田に戻ると言うので手紙を書いた」という一文からはじまっており、夫妻の睦まじさを後の世に物語っている。
 




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