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西明り


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 3
 波の音が聞こえる。
 耳朶を撫で上げる潮騒に、時折、海鳥の声が混ざる。寄せては引き、引いては押し寄せる緩やかな波が浜辺を洗い、漁をする為に海に出ようとする地元の漁民や、波打ち際で戯れる幼子達の向う脛を濡らして去って行く。
 同じ青であっても、海原の青と空の青では色の質が違う。海面が陽光を照り返し、きらきらと瞬くその様は、まるで内に鏡の破片を孕んでいるかのようだ。
 岸辺に愛馬を繋いで砂浜に降り立つと、遠くの水平線を帆船が通り過ぎて行くところだった。そんなものを見るともなしに眺めていると、一際大きな波が打ち寄せてきて、一瞬、隆元の足首までもが水に浸った。
「どうじゃ、綺麗であろう?私はここから見る海が大好きなのじゃ」
 ぼんやりと海を眺める隆元の背後で、砂を踏み分ける音がする。大内館の中なら自由に出入りができる姫君に誘われて、遠乗りに出かけたのは今日の昼前のことだった。遠乗りと言ってもまさか姫君を一人で馬に乗せるわけにもいかず、隆元が同じ馬に乗せてこの場所までやって来たのだが、正直道中、背中に触れる身体の柔らかさや、鼻腔をくすぐる花の香が気になって仕方なかった。そんな少年の心中も知らず、少女から娘へと育ちつつある姫君は、ふわりときれいに微笑って見せた。
「――姫」
 毛利の家と内藤家の関係は悪くなく、隆元と姫君も大内館で顔を合わせた時などは、時候の挨拶以外に何くれとなく会話もする。だが二人きりで遠出をしたことなど、正真正銘これがはじめてのことだ。もうすぐ縁談も持ち上がろうという年頃の姫君が、供も連れずに男と二人きりで外出など、通常ならば考えられる話ではない。
 内心の訝しさは隠し切れないものの、滅多に持つことのない時間がうれしくないはずもない。二人で並んで波打ち際を歩いていると、不意に少女が呟いた。
「こないだ内々に……お館様から父上に話があったそうじゃ。お館様は私を晴持の妻にと考えているらしい」
 ――波の音が止まった、気がした。
 実際には打ち寄せる水が足首を濡らしていたので、波が引いた訳ではないのだろう。波の音は聞こえなくなったのに、頭の奥で海鳥だけがけたたましく鳴いている。
 大内晴持は実子のいないお館――大内義隆の養子である。義隆の姉が一条家に嫁いで儲けた子供で、正真正銘貴族の血脈を継いでいる。年の頃は隆元や隆房とさほど変わらないが、色白でひ弱げな少年で、あれで武門の棟梁が務まるのかと、危惧する声も多い。
 義隆自身が内藤家の娘を母に持ち、義隆の姉妹の一人が内藤家に嫁ぐなど、大内と内藤は既に姻戚関係で結ばれている。大内家の後継としては少々頼りない晴持の後ろ盾に、また、あまりしっくりとは行っていない興盛と義隆の仲を取り持つ為にも、極めて妥当で――ふさわしい縁組だろう。
「それは誠に……おめでとうございます」
 かろうじて、かすれた声でそれだけ吐き出した。
 きわめて妥当で、ふさわしい縁組で、大内家の身内にも内藤の周囲にも異を唱える人間がいるとは思えない。右を向いても左を向いても戦だらけのこの時世において、例え政略結婚であっても、縁組はめでたいばかりの出来事だ。ましてやそれが家と家の利益に繋がるのであれば、本当にめでたい。
 笑った顔が歪んでいる自覚は、我ながらあった。隆元の返答を聞いた瞬間、緋奈姫は澄んだ瞳を見開いた。黒く濡れた瞳の向こうを、海鳥が群れをなして飛んで行く。隆元が笑っているのに、どうしてか姫君の方が泣きそうな顔をしている。
「隆元殿は……?隆元殿は本当にそれで良いのか?!」
 大きな二つの瞳に浮かんだ雫の行方を見届ける勇気がなくて、顔ごと思い切り視線を逸らす。姫君は何故今、自分をこの場所に連れ出したのだろう。その理由がわかるようであり、わからぬようでもあり――正直にいうなら、わかりたくはない。
 伸びてきた細い腕を振り切って踵を返す。駄目だ。これ以上彼女と向き合っていては、めでたい以外の――以上の何かを言い出してしまいそうだ。
 逃げるように少し歩いて、海岸に繋がる土手の向こうに、見慣れた馬が数騎繋がれていることに気がついた。恐らくは内藤家の家臣が、大切な姫君の姿が見えないことに気づいて追ってきたのだろう。
 大切に大切に育てられた姫君だ。今後は大内家の奥方として、領民にも家臣にも尊敬され仰がれることだろう。そうして大内が安定してくれるのなら、毛利にとっても望ましいことに他ならない。
 なのに何故、これほどまでに心が波打つのか。
 息子を人質に差し出してまで、大内に擦り寄る両親も。真のない、耳障りのよい言葉だけを吐き捨てる大内も。――他の男のものになる好いた娘も。
 一瞬、すべて滅んでしまえばいいと思った。



 大内に敵対する尼子の軍勢が、毛利の本拠地である郡山に向かっている。その情報が隆元にもたらされたのは、山口が梅雨入りを迎えた頃のことだった。
 降り止まない雨がじっとりと地面を濡らし、蓮の花を浮かべた池の畔では、蛙が大合唱をしている。
 実家の父から届いた大内の助力を仰ぐ書状を手に、隆元はすぐに大内義隆に援軍を請うた。しかし隆元の期待に反し、義隆の反応は薄かった。
「隆元、そちの父親はなかなかの戦上手じゃ。そう慌てなくとも、そう簡単に城を落とされはしないわ」
 足許である九州や山陰で火の手が上がっていて、郡山救援に裂く余裕がないという事情もあるにはある。だがそれ以上に、はなから、大内には本気で毛利に助太刀する気などないのだ。いずれは相対する大内と尼子の二雄、その狭間で露払いに毛利がばっさりと斬られても、大内にとっては痛くも痒くもない。
 ――ならば、何故、俺はここにいる……?
 結局、援軍とは名ばかりの少数の出兵を約束されて、引き下がる他、術はなかった。このまま大内の援軍が無ければ、そう遠くない将来、毛利は確実に滅亡する。
 
 ――後の世に吉田郡山合戦と呼ばれる、戦いのはじまりである。





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