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西明り


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 2
 家の名を捨てても構わぬと、父は言った。
 毛利の名も誇りも捨てて構わない。いざとなれば武士の身分を捨て、百姓に混じってでも生き延びろ。
 故郷の安芸を離れる前夜、人払いを済ませた吉田郡山城の一角で、嫡男にむけてそう言い放った父は、己が息子が近い将来、命と家名を秤にかける日がやってくることを、予見していたのだろうか。


 
 濃灰色の空間にぽかりと浮かんだ白い面(めん)からは、確かに、あるはずのない哀愁や哀切が感じられた。金糸や銀糸をふんだんに使った衣装よりも、きらびやかに飾り立てられた舞台よりも、白い面をつけた生身の身体が表現する感情の鋭さに少年は圧倒された。
「はじめての能はどうだ。隆元よ」
 声もなく舞台を見つめる隆元に、太宰大弐――大内義隆が声をかける。大内家は代々、都との係わりが深い。先代の義興は将軍を保護して上洛したこともあり、また戦を逃れて西に落ち延びた公家も多く、本拠地である山口は「西の京」と呼ばれるほどだ。
 現在の当主である大内義隆はその中でも特に文化的な人間で、茶道や能など芸術面にも造詣が深い。人質である毛利の倅をわざわざ能の宴に呼んだのも、義隆という男の懐の深さの表れだろう。
「どうだ。美しいだろう。目がくらんだか?」
「誠に……美しゅうございます」
 衣装は荘厳で、湯水のように金を使った舞台も、熟練の奏者が奏でる笛や小鼓の音も、吉田の山里にいては決して見ることのできないものだ。
 確かに、美しい。――だが。
 お館様主催の能の宴とあって、大内義隆の居城である築山屋形には、大内家の家臣や重臣、大内に所縁ある有力公家達が一斉に顔を揃えている。だが今、ここに集まった彼らの心境は、決して一様ではない。
 大内家と都との距離はかねてから近しいが、義隆の都かぶれ、京びいきには少々目に余るものがある。仮にも部門の棟梁として、いかがなものか。山口にやってきて間もなく、隆元は大内家の家中に流れる不穏な風を感じ取っていた。大内譜代の重臣達の表情は、どちらかといえば、苦(にが)い。
 一方の公家達はといえば、自分たちの庇護者であるお館様を取り囲んで、ごますり追従に余念がない。白塗り顔に囲まれて盃を傾ける大内義隆の顔は、完全にその中に溶け込んで見えた。
 ――父上、本当によろしいのですか……?
 元就が隆元を山口に預けたのは、尼子と大内の二強に挟まれた安芸の地において、どうしても、どちらか一方に擦り寄る必要性があったからだ。父は尼子より大内を選んだ。だが今、毛利が何よりも頼みとしている大内家も一皮向けば決して一枚岩ではない。
 苦い思いを押し殺してあたりをうかがっていると、義隆の間近で、父親の内藤興盛に連れられた緋奈姫と目があった。この宴の為にあつらえたのだろう。桜の花びらをあしらった薄紅色の打掛を着て、薄く化粧を施している。
 姫の父親である内藤興盛は、義隆の都かぶれを快く思わない重臣の筆頭でもある。公家の中に溶け込んだ義隆を見る興盛の視線は決して快くはない。
 今、この場の奥底に漂う不穏な空気に気がつかないほど、彼女は幼くはない。しばし隆元と見つめ合った後、おもむろに、姫君はその場に立ち上がった。長い袖をひりとはためかせ、澄んだ声を張り上げる。
「お館様!お館様!見て下され!この着物、今日の日の為に、父上が新たに作って下さったのじゃ!」
 白塗り顔に取り囲まれていた義隆の相貌が崩れた。正室にもあまたの側室にも実子がいない所為もあって、義隆はこの親戚の娘を実の娘のように可愛がっている。
「おお、緋奈よ。そなたは相変わらず美しいの」
「帯も見てくださるか?こちらは母上が見立ててくれたのじゃ」
「わかった、わかった、――これ、そんなに袖を引っ張るな」
 姫君に袖を引かれ、義隆が公家達の輪を離れる。これがもう少し年長の女ならば、しなだれかかる、とでもいうのだろうが、隆元より四つばかり年下の少女はまだ女の色香にはかなり乏しい。だが今、自分より年長の男の袖を掴んで歩く姫君の横顔は、年齢よりもずっと大人びて見えた。



 ちょっとした出来事が起こったのは、能の宴から数日後のことだった。
 隆元が育った郡山城は山を切り開いて出来た城で、城内に生えている木や流れる水は元からそこにあったもの、石垣や垣根は戦略上の必要からあつらえられたものに過ぎない。木や水や石を人の目が楽しむ為に配置した庭という名の芸術は、山口にやってきて、はじめて知ったものだ。
 毛利の父からの届いた貢物を大内義隆に手渡した帰り道、築山屋形の庭を散策していた隆元は、芸術的に配置された庭木の向こうに、あまり会いたくはなかった人物の姿を認めて歩みを止めた。
 現れた人物は、内藤家と並ぶ大内家の重臣、陶家の嫡男陶隆房である。彼もまた気楽な散策の途中だったのか、今日はいつもの取り巻き連中も家臣も連れていない。
 年の頃はさほど変わらぬ少年同士だが、置かれた立場には雲泥の差がある。道を譲って一礼すると、例によって例のごとく、侮蔑の言葉が降って出た。
「――山猿が、こんなところに何の用だ」
「……」
 一体どうしてここまで嫌われたものか、正直、隆元にはてんで見当がつかない。陶家は山口における毛利の窓口とも言える家であり、、はじめに山口にやってきて挨拶に行った時には、隆房や父親の興房の反応も悪くはなかった、のだが。
「猿はさっさと山に帰れ。この庭は猿山ではないぞ」
 挑発に乗ってこちらが我を忘れようものなら、諍いは家と家との問題――大内と毛利の問題に摩り替わる。いつもなら、散々侮蔑の言葉を吐き捨てれば、満足して立ち去って行く。しかし余程虫の居所が悪かったのか、今日の少年は違った。
「おい、お前、姫がいなければ反論もできないのかよ!」
 襟首を掴まれ、背後の木の幹に背中を押し付けられた。そのまま強く締め付けられ、目の前に霞がかかる。
「……お放し下さい、隆房殿……」
「姫やお館様に気に入られているからって、付け上がるなよ。――ああ、もっとも、姫君はお館様の妾の座を狙っているわけだから、お前になんか目もくれないか」
「――貴様!」
 姫君が人目もはばからずに義隆に甘えるのは、父親と義隆との間に漂う暗雲を振り払わんが為の彼女なりの必死さの現れだ。刀を取って戦場を駆けるだけが戦ではない。女達もまた戦っている。孤立無援の戦場で、たった一人で。
 山里育ちの運動能力を甘く見てはいけない。襟元を掴んだ拳を逆に握ると、呆気なく身体の向きが入れ替わった。家の大小に係わらず、武家の子息に武芸は必須だ。隆元の拳が隆房の鳩尾を打ち、同時、隆房の膝が隆元の脚を払った。
 そのままもつれ合うようにして、敷き詰められた白砂利の上に転がった。上になり下になり、殴られたり殴り返したり、どれだけの時間が経過しただろう。家の名や立場を捨ててしまうと、そこにはただ生身の身体と心だけが残る。何度目かに隆元が握り締めた拳を振り上げた瞬間、ぽつりと呟く声がした。
「能の宴……」
「……?」
「どうしてお前なんかが、俺よりお館様の近くにいるんだ……!」
 これまでとは声質からして違う少年らしい呟きに、隆房の父が病みついていて、もう長くはないと言われていることを思い出した。父親が亡くなれば後を継ぐのは嫡男の隆房であり、少年は少年なりに、目に見えない重責に耐え続けていたのかもしれない。
「どうしてお前なんが、俺よりお館様に気に入られて……」
「隆房殿……」
 陶家の主である興房は文武両道の優れた人物で、大内家での人望も厚い。大きすぎる父親の存在と、周囲の期待に押しつぶされてもがく姿は、そう遠くない未来の隆元自身の姿でもある。
 振り上げかけた拳が、中空で止まった。





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